新しい連載が始まるときって、たっぷりと墨を含ませた筆を和紙に最初におろす瞬間に似ている。最初の瞬間にほとんどが決まる。ここで失敗したなら挽回は難しい。
などと書きながら(筆ペンを使わない本格的な書道など小学校卒業以来したことなどないくせに)、僕は愛用のパソコンの前で吐息をつく。これは大変な連載だ。
学研の一般書籍編集室に所属する中村政幸から、「一度お会いしたいのですが」との連絡があったのは昨年の秋。新連載の打診だった。もちろんこの段階でテーマは決まっていない。硬派なノンフィクションというイメージが中村にはあったようだが、僕はそれには乗らなかった。
「もっと好きなものについて書きたいのだけど」
僕は言った。
「たとえば何ですか?」
「深海魚」
「深海魚?」
「造形が好きなんです。フーセンウナギとかホウライエソとか、とにかく宇宙から飛来した物体Xみたいな生物ですよ。あと、その生態にもとても興味がある。たとえばチョウチンアンコウのオスは、メスに比べると圧倒的に小さい。ミツクリエナガチョウチンアンコウという種類では、オスは2㎝でメスは40㎝です。そしてオスはメスに寄生します。深海の底でメスに出会ったオスは、鋭い歯でメスの皮膚の一部に噛みつきます。そのまま離れない。やがてオスの唇とメスの皮膚が融合します。つまり一体化する。さらにオスの目は消失します。共有するメスの血管からオスは栄養を摂るようになる。呼吸も自分では行わなくなります。これもメスの血管から酸素をもらうわけです。まさしく文字どおりの雌雄同体。つまり僕たちが普通思い描くチョウチンアンコウの造形は、実はメスの姿なんですね」
はあと頷く中村の表情が困惑している。それはそうだ。ノンフィクションの連載を頼みに来たのに、いきなりチョウチンアンコウの話では受け答えに困るのも当たり前だ。
「……ダメかな。深海魚の連載」
「ダメとは思いませんが、……続くでしょうか」
訊ねられて僕も考え込んだ。確かに深海魚の生態の描写だけでは長続きしないだろう。それに「生き物図鑑」的になったとしたらつまらない。専門家は大勢いる。僕が書く意味はあまりない。
「深海魚だけじゃ無理かな」
「そうですね」
「じゃあ、他に爬虫類とか両生類とか入れたらどうだろう? 子供の頃から好きだったんです」
「……そういう問題じゃないような気がします」
そうだね。そのとおり。内心はそう思いながらも、僕は思わず黙り込んだ。
「……生きものをテーマにするにしても、もう少しひねることができないでしょうか」
中村のこの言葉に、僕は思わず顔を上げた。