子どものころから夏の暑さは苦手ではなかった。いやむしろ大好きだった。暑ければ暑いほど嬉しかった。
だいたいが僕は汗をかかない。もちろんまったくかかないわけじゃないけれど(それじゃ夏には体温が上昇しすぎて死んでしまう)、昔からあまりかかない。新陳代謝機能が低いのかな。でもならば暑さは苦手なはずだと思うのだけど、このあたりのメカニズムはよくわからない。とにかく夏にハンカチを手放せないという人の生理や心理は、僕にとってはよくわからない領域だった。
でもそれも過去の話。数年前の夏、僕は暑さにすっかり参っている自分に気がついた。汗も普通にかくようになっている。なるほど。夏は大変だ。酷暑という言葉の意味をやっと実感する。
そんな暑さ新参者の僕にとって、今年の夏はさすがに辛い。まあ古参でも新参でも、この夏の暑さは耐え難い。
やはり最高気温が40度近くに上昇した8月上旬、僕は皇居周辺にいた。9月上旬に刊行予定の書籍のカバーの撮影だった。仮に気温40度なら、地表は50度以上はあるはずだ。銭湯の熱いほうの浴槽になかなか入れない僕としては、こんな状況で活動することは辛い。
撮影場所に皇居を選んだことに特に理由はない。木々が多いのでバックとしてはいいだろうとカメラマンが考えたようだ。お堀端の橋の上、撮影場所を探しに行ったカメラマンを待ちながら暑さに喘いでいたら、目の前を何かがすばやく横切った。僕は顔を上げる。黄色と黒のツートンカラー(要するにタイガース・カラーだ)。まさかと思ったけれどオニヤンマだ。
写真の個体は尾部に小さな産卵弁らしきものが見えるので、たぶんメスだ。オニヤンマはオスよりもメスのほうが少しだけ大きい。体調は10センチ近く。文字とおり日本最大のトンボだ。
オニヤンマのオスは、ちょうど人の目の高さ辺りの高度を飛行する。個体ごとにテリトリーを持ち、そこを周回(パトロール)する特徴がある。そこでもし同属のオスに会えば撃退するし、メスに会えば交尾するわけだ。
つまり1回オスのオニヤンマを見かけたら、その同じ場所に彼は必ずまた現れる。決して迷うことなどない。子どものころから極度の方向音痴でしょっちゅう迷子になっていた僕にとって、決して道を失わないオニヤンマは憧れの虫だった。ただし虫取り網を手にしていても、簡単につかまる虫ではない。とにかく速い。トンボ類は昆虫類で最速だけど、オニヤンマは特に早い。そして巨体に似合わず身のこなしは軽い。ほとんど羽を動かすことなく網をかわし、何事もなかったかのように飛行を続ける。
運よく捕まえることができたとしても、他のトンボのように気軽に胴体を背中側からつまむことはできない。とても攻撃的なのだ。迂闊に指を顔の前に差し出すと大きな顎で噛みつかれる。僕は噛まれたことはないけれど、一緒にいた友だちが指の先を噛まれて、大声で泣きながら家に帰ってしまったことを覚えている。少量だけど血が出ていたような気もする。とにかく大変な虫だ。
トンボとヤンマの違いは、分類的にはカテゴリーの違いを意味する。トンボは目だしヤンマは科だ。つまりオニヤンマはトンボ目オニヤンマ科ということになる。
他には、ヤンマはトンボよりも大きい場合が多い。たとえばヤンマの代表はオニヤンマにギンヤンマ。トンボの代表はシオカラトンボにイトトンボなど。
現在僕が暮らす千葉と茨城の県境のあたりにも、トンボはたくさんいる。でもオニヤンマは見たことがない。まさか東京千代田区1-1-1で目撃するとは予想もしていなかった。
お堀で繁殖しているのだろうか。そうとしか考えられないが、オニヤンマの幼虫(ヤゴ)は、大きな池や沼を好まない。どちらかといえば浅い小川を好む。お堀は決してベストな環境ではないはずだが、それなりに環境に適応したのかもしれないし、あるいは皇居内には彼らが好むような水域があるのかもしれない。
かつて皇宮警察官に取材したとき、御所の近くには野生の狸が棲息しているという話を聞いたことがある。なにしろ皇居外苑の総面積は約115ヘクタール。1日や2日では歩ききれないほどの広さなのだ。
ふと視線をお堀に落とせば、水面を何かが泳いでいる。鯉ではない。カメだ。
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