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森達也の首都圏動物記 第8回 新宿のカラス

 イエーガーによると、音速の壁を越えたその瞬間、強烈な騒音と振動がぴたりととまり、コックピットは嘘のような静寂の世界になったそうだ。つまり音を後ろに置き去りにしてしまったわけだ。僕の場合もそれに近い。0時15分を過ぎるまでは、今店を出ればまだぎりぎり間に合うかもしれないとか、全速力で走れば何とかなるかもしれないとか、時間ばかりが気になってまったく酔えなかったけれど、20分を過ぎてもう絶対に間に合わない時間になったとき、すべての雑念を後ろに置き去りにしたかのように、ふいに世界が一変した。

 イエーガーは、音速を超えたその瞬間、高度数千メートルを飛びながら、漆黒の宇宙と地球の青い大気に初めて気がついたという。そして僕はといえば、口の中に入っていたイカ刺しの味の深さとホッピーの咽喉越しの豊かさに初めて気がついた。
 ところが時計の針が午前3時を過ぎる頃、じゃあ明日は早いのでとか何とか言いながら、みんなはそわそわと連れ立って帰り始めたのだ。ここで約束が違うと騒ぐのもあまりに大人気ないとは思ったけれど、気がついたら残っている人はもう数人しかいない。その数人もいかにも眠そうだ。しかも店は午前4時に閉店だという。何でそんな半端な時間にと思ったけれど、たぶん従業員を始発で帰らせるためなのだろう。

 仕方なく勘定を済ませてから数人で店を出たけれど、帰りたいなあという雰囲気が疲れきったみんなの表情にありあり。僕には遠慮しなくていいからタクシーで帰ってくださいと言ったら、じゃあ申し訳ないけれど、とか何とか言いながら、どうやら全員が同じ方向らしく、1台のタクシーに乗り込んで帰ってしまった。
 残された僕は、仕方なく24時間営業という看板が下がっている居酒屋で、ビール1本を注文して始発までの1時間あまりを1人で過ごした。眠かった。自分の決断に腹が立っていた。もう二度と音速、じゃなくて終電の壁を破ることはすまいと思っていた。人には分相応がある。その相応の範囲で暮らすべきなのだ。

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