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西洋と真っ向対峙した信念の科学者 日本近代化学の父 川本幸民

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 川本幸民は文化七年(1810年)、摂津国三田藩の足軽町に七人兄姉の三男(末子)として生まれた。三田藩は現在の兵庫県三田市あたりを領有する大名で、川本家は代々その藩医を務めていた。


川本幸民 日本学士院所蔵

 敬蔵は幼い頃から好奇心旺盛で、知的天分に恵まれていたが、数え年十歳の時に父と死別。その後は長兄周篤の庇護のもとに育てられた。父の死と前後して藩校造士館に入り、漢学や武術を学んだ。向学心に富み、負けず嫌いの彼は一心不乱に勉強に励んだ。成績は終始抜群で、三田藩始まって以来の秀才と称せられるようになった。

 しかし末子の幸民には学業に専念する余裕はなかった。少しでも早く独り立ちするために彼が選んだのは家業の医師だった。十八歳の時に漢法医村上良八に入門した幸民は、ここで二年間漢方医学を学んだ。その間に蘭方医学に関心を持ち、蘭方医になる希望を抱くようになったが、兄に猛反対されて挫折した。だが、その後に思いがけない転機が待ち受けていた。

 長兄の周篤が参覲交代の藩主に従って江戸詰めとなり、幸民も同行を許されたのである。兄のはからいと、それを認めた藩主九鬼隆国の理解と愛情によるものだった。隆国は幕末の名君として知られ、藩校造士館を開き、京都からすぐれた陶工を招いて伝統の三田青磁を復活させ、三田藩中興の祖といわれた。

 造士館きっての秀才幸民の評判は、当然、藩公の耳にもとどいていた。英邁な隆国はいずれ洋学が必要になるときが必ず来ると見ていた。その先導役を幸民に託そうとしたのである。費用は全額藩が負担。つまり公費留学である。これは当時としては異例のことであり、三田藩としても始まって以来のことだった。

 この厚遇に感激した幸民は、学問を成し遂げるまでは死んでも故郷に帰らないと誓いを立てた。


関連用語

九鬼隆国
摂津三田藩第10代藩主。 (1781-1853)。小藩ながら勅使接待役や奏者番などの役職を務め、城主格に昇格。また藩校の造士館を発展させ、伝統の三田焼を復活させるなど、三田藩中興の祖とうたわれた。幸民のよき理解者として一貫して支援し、幸民もその恩に報いるべく励んだ。

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