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生命情報科学の源流

第6回 1945年:最終秘密兵器

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文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長鈴木 理

 1944年(昭和19年)、南洋のマリアナ諸島が米軍の手に落ちると、ここからB29の編隊が日本全土を爆撃射程に収めた。これを阻止しようとする日本海軍のもとで、仁科芳雄や朝永振一郎が開発に着手した最終兵器、それはパイロットの生命を狙うマイクロ波光線兵器だった。しかし米英は日独に先んじて、ウラン爆弾さらにはプルトニウム爆弾を完成。双方の側に、やがて分子生物学の誕生に貢献する科学者達の姿があった。

静岡県島田に設営された海軍技術研究所分室に泊まり込んだ朝永振一郎(前列右から3人目)や小谷正雄(同右から2人目、後の初代日本生物物理学会長)を湯川秀樹(同右から4人目)が訪問した際の撮影。

進めデリーへ

 日本占領下のビルマと英植民地インドが接するジャングル地帯では戦争終盤までたいした展開は起こらず、アジアの英陸軍は「忘れられた軍隊」と呼ばれていた。しかし、ウィンゲート准将率いるゲリラ部隊が日本軍後方を撹乱した事から事態は変化。ジャングルでの移動が可能な事を知った日本陸軍は、正規部隊によるインドへの侵攻を計画、陸軍2個師団とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が1944年(昭和19年)3月、コヒマ、インパール方面をめざして出撃した。1943年(昭和18年)11月には東京で大東亜会議が開催され、ビルマ、タイ、フィリピン、満州国、南京政府の親日政権代表に交じって、自由インド臨時政府主席のボースが演説した。「たとえ、他のどの国が英国を許したとしても、インド人が許す事はない」。シンガポールでインド人志願兵を前にボースは叫んだ。「進め、デリーへ」。

 国境を越えたインド兵達は祖国の大地に接吻した。しかし、作戦は悲惨な大敗を招き、チンドウィン川は飢えと疾病に苦しみながら敗走した日本兵の死体で溢れた。これが、小説『ビルマの竪琴』の背景である。敗戦に際して、ボースはソ連に亡命して独立運動を続けようとしたが、台湾で搭乗機が離陸に失敗し、死亡した。その遺骨は杉並の蓮光寺にある。

杉並・蓮光寺に立つチャンドラ・ボースの胸像。蓮光寺に仮安置されたボースの遺骨は何度かインドへ移されようとしたが、ガンジーを継承するインド政府は受け取りを拒否、今も蓮光寺は命日の8月18日に慰霊祭を行っている。政府の姿勢とは異なり、インド民衆のボースへの尊敬は高く、ニューデリーの像に花が絶える日はない。

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