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生命情報科学の源流

第9回 1951年:ナポリの生命の糸

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サイクロトロン・ヒル

 カリフォルニア大学にやって来たローレンスにとって、転機は1929年(昭和4年)、ドイツ語で書かれたヴィドレーの論文を読んだことから訪れた。論文に書かれた方法では、円筒形の電極に交流電圧をかける事により、かけた電圧の2倍まで粒子は加速される。もっと効率の良い加速法を求めたローレンスは、磁場の中で粒子に円軌道をえがかせれば、粒子の周期がエネルギーに関係なく一定で、したがって加速が続くことに気づいた。これを“共鳴”という。ローレンスは、学位論文をしあげて暇だった大学院生とともに、小型の電磁石を使って“共鳴”を観測しようとした、1930年(昭和5年)、西部ではじめての米国科学振興協会の会合がバークレーで開かれた。カリフォルニア大学は、若きローレンスを教授とし、サイクロトロンを華々しく宣伝した。しかしローレンスの二人目の学生となったリヴィングストンが言うには、「この装置は実際には機能していなかった」。

左)パウルセンアーク磁石を使って、1932年(昭和7年)に完成した27インチ第一号サイクロトロとともに写るリヴィングストン(左)とローレンス
右)ローレンスとリヴィングストンによる最初の共鳴加速器の真空箱。現在バークレイのローレンスホールの壁に展示されている。

 この夏から、リヴィングストンが研究に参加。1931年(昭和6年)、放置されていた日本との通信用のパウルセンアーク磁石の存在を知った二人は、この45インチ磁石を使って、1932年(昭和7年)第一号のサイクロトロンを完成した。

 1934年(昭和9年)頃、ローレンスの研究室は活気に満ちていた。ローレンスは早朝から深夜まで進捗を監視するだけでは満足せず、サイクロトロンが停止すると寝室の無線機が警報を発するよう細工した。短時間でもサイクロトロンが停止すると、たちまちローレンスからの電話が鳴った。ローレンスの野心は、少しでも大型でより高い加速能力を持つサイクロトロンを建設すること。これを化学科のルイス教授が支援した。ノーベル賞受賞者でもあるルイスは同僚の物理学者達に、「君達、物理学者は保守的すぎるよ。タイムマシンでも作ってみせたらどうかね」。ルイスにはローレンスのサイクロトロンがタイムマシンに見えたに違いない。サイクロトロンは、次々とゴールデン・ゲート・ブリッジを見下ろす小高い丘に建設され、この丘はサイクロトロン・ヒルと呼ばれるようになった。

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