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光武利将さんに聞く【後編】
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光武 母親が紳士服の仕立てをやっていまして、今思えば、その「型紙」が洋服の展開図なんですよね。その型紙通りに裁断した布を縫い合わせて、立体の「洋服」になるわけですから。しっかり仮縫いして、新聞紙などに型紙をチャコ・ペンシルでトレースして、それをノリで生地に張って、切って…。自宅の隅でやっていました。
光武 僕、小さい頃は体が弱かったので、家にほとんどいることが多かった。それでも子どもですから、静かにさせるために、針と糸を使ってボタン付けとかやって遊んでいたんです。積木とかだと音を出してうるさいので、一番静かに遊ばせるためにはボタンつけ…たぶん、4歳とか5歳とかだと思います。
光武 たぶん、猛烈におもしろかったから、黙ってやっていたんでしょうね。最近、紙工作の教室で小さい子が横で見てたりすると、黙ってずっと30分、1時間、猛烈に集中しちゃう子がいます。恐らくそういうノリで、口から泡でも出そうな勢いで、黙ってやっていたんだと思います。
▲子どもの頃から、工作に対する興味は人一倍あった光武氏だが、生まれ育った環境もまた、ペーパークラフト・アーティストが誕生する重要な要素であった。
光武 小学校の中・高学年の時、工作クラブというのがあって、紙工作はよくしていたと思います。船をつくってましたね。飛行機は流石に紙飛行機になっちゃうんで。紙でつくって、ニスを塗って防水するんですよ。
光武 木は削ったりが面倒くさくて…紙の方が早いので。
光武 かなり古い時代から「木型模型」で有名だったと聞いています。僕なんかよりももっと前の世代の話なので、くわしくは知りませんが、なんとなく形はできている木型があって、削りだして、組み立てていく。かっこよく作るにはものすごくテクニックがいるという模型なんですね。学校の図書館にも「木型模型の作り方」というのがあって、よく読んでいました。それで、木材模型が盛んだったところにアメリカからプラスチックの模型、いわゆるプラモデルが入ってきたとき、模型屋というくくりで静岡に根付いたのだと思います。
光武 いえ、中学から高校の途中まではサッカーをやっていましたので、サッカー漬けでした(笑)。
光武 記憶にはありません。ただ、先日、高校時代の友達に会った時、おもしろい話を聞かされました。学園祭で門をつくる話があった時に、こういう形にしよう、ああいう形にしようって話し合っていたら、次の日、僕が紙でつくってもってきたらしいんですよ。僕自身は思い出せないんですけれど、昔から「結構、なんでも簡単に紙でつくってきた」っていう話をされて、そうだったのかなって。
光武 そうかもしれません(笑)。
光武 高校を卒業してデザインの専門学校に入学して、舞台セットをつくったり、ディスプレイをやったりしていました。その後、23歳のとき。設計事務所で建築の完成模型をつくるようになりました。と言っても、完全なペーパークラフトではありません。紙で発泡スチロールを挟みこんだりする模型です。
光武 これしかできなかったんですかね。基本的に飽きっぽいというかせっかちなので、長くいろんな人の手をかけて完成させるのは待ちきれない。早く完成させたい。建築物ではそうはいかない。「とにかく自分で早く完成させたい」というところから、26、27歳の頃、ペーパークラフトの世界に移ってきたんです。
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