第二次世界大戦下、連合軍に経済的側面から揺さぶりをかけるため、ヒトラー総統の命令のもと、ドイツ軍はイギリス紙幣の偽造に着手した。この“贋札づくり” の技術者は、収容所に収監されていたユダヤ人たちの中から選ばれた。
紙やインクなどの素材づくり、絵柄のデザイン、そして印刷など、造幣に必要な各プロセスの専門家が各収容所から招集され、「贋札だとばれないほど精巧なものをつくらなければ処刑」という過酷な条件のもと、英国のポンド紙幣の贋札づくりに挑まされる。
物語は、贋札づくりのチームリーダーに抜擢された主人公の中年男の目から描かれる。
ホロコーストにまつわる実話をモデルにした物語は、必然的に全編陰惨な雰囲気を漂わせるが、そこに「紙幣はどのようにしてつくられているのか」という謎解きのエンターテインメント性も併せ持っているので、最後まで一気に観せられてしまう。
極限状態に置かれた男たちが見せる“明け透けな生への執着”だけでなく、人としての尊厳も家族の命も奪われた男が、それでも見せる“人として生き続けるための矜持”を描くことにより、観る者の胸にひとかけらの希望を残すあたりは、アカデミー外国語賞の受賞も納得できるできばえとなっている。
この映画に描かれた時代から60年以上の歳月が流れた現在、印刷技術の進歩には目を見張るものがあった。
微小なLSIの回路からカードの偽造防止用ホログラフィまで、巷ではありとあらゆるものが“印刷”されている。
『そんな時代の最先端の印刷技術とは何だろう?』
探してみたら、とんでもないものを印刷しようとしていることがわかった。
なんと、人間の毛細血管を印刷しようというのだ。
ここまでくれば「最先端技術」というよりも、むしろ「SF映画」のレベルのお話だ……が、事実なのである。
事の発端は、今から4年余り前に遡る。2004年7月、東京医科歯科大学の森田育男教授のグループと印刷業界最大手の大日本印刷は、微細加工技術で毛細血管のパターン形成に成功した。この共同研究をさらに推し進めて、現在、最新の印刷技術を利用した「毛細血管を転写する再生医療の研究」が進められているという。
転写とは平たく言えば「コピー」のこと。でも、いくら印刷技術が進んでいるからといって、さすがに毛細血管までコピーできるなんて俄には信じがたい。
『いや、そもそもどうして再生医療の現場で、わざわざ印刷技術を使って毛細血管をコピーする必要があるんだ? 「転写」という言葉は使ってるけど、実は「印刷」とはほど遠い複雑な技術なんじゃないの?』
何でも疑ってかかるのが記者の性(さが)———ということで、早速、この共同研究の大日本印刷の研究チームのリーダーである大日本印刷研究開発センターバイオマテリアル研究所グループリーダーの服部秀志工学博士を訪ねた。
そして、この予測は完全に裏切られることになった。
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▲大日本印刷研究開発センターバイオマテリアル研究所グループリーダーの服部秀志工学博士。 |
細胞のインクを細胞のシートに印刷
「わかりやすく言えば、血管になる細胞をインクにみたてて、薄い細胞のシートに転写し、そこに血管網を構築する技術です」
『え? やっぱりそのまんまだったの?』と驚きを新たにしながら、服部博士の解説に耳を傾けた。
この技術が確立すれば、血管に血がめぐらないことから起こる虚血性疾患を治療する血管新生治療に役立つほか、近年、世界中から注目を集める「細胞シート」の治療範囲を格段に広げることにもつながるという。
細胞シートとは、薄いシート状に人工的に培養された細胞のこと。東京女子医科大学の研究グループが開発した再生医療技術で、火傷を負った皮膚、病んだり傷んだりした角膜、歯周病となった歯根膜などの患部に移植し、組織を再生させる技術だ。患者自身の細胞から培養した細胞によって患部を再生させられるため、移植後の定着率も高く、注目されている再生医療の代表格の1つと言える。
ただ、細胞シートにも限界がある。皮膚や角膜、歯根膜などといった薄い患部の再生は可能だが、ある程度の厚みを持った組織体の再生は難しい。
「たとえば心臓の筋肉の代わりにしようとすると、それなりの厚みのあるものを移植しなければなりません。現在、細胞シート1枚の厚みは数十μmです。厚みを増すには4〜5枚積層すればいいわけですが、重ねた内部の細胞には酸素や栄養が行き渡らなくなり、ついには死んでしまいます。積層した細胞シート全体の細胞を活かすには『細胞に酸素や栄養を供給できるような構造』つまり毛細血管が必要となります。現在、東京女子医科大学をはじめとして細胞シートに血管系を導入する技術の開発が盛んに行われています。我々は『印刷技術によって、組織に毛細血管網の代替となる構造を構築できるのではないか』と考えています(服部談)」
この「毛細血管網の代替となる構造」の構築法として期待されているのが、森田教授のグループと服部博士が共同で研究している「マイクロパターン化血管内皮細胞の転写印刷」なのである。
2次元で転写すると勝手に3次元に 服部博士はノートパソコンを取り出すと、研究中の技術の全体像について説明を始めた。
「この研究は、東京医科歯科大学の森田育男教授が始められたものです。森田教授は大日本印刷の製品を使って、血管のもとになる血管内皮細胞を自らが望む形にパターン培養しておられました。それを培地に転写したところ、転写先で細胞は管状になり、欲しかった形の毛細血管に似た構造物ができることを偶然発見されたのです」
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▲パソコンを使って解説する服部博士。 |
このときから森田教授のグループの研究を服部博士ら大日本印刷のグループがサポートする形で「マイクロパターン化血管内皮細胞の転写印刷」の共同研究がスタートした。
この技術の概略については、以下のイラストを見てほしい。
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(C)大日本印刷株式会社 |
「血管になる細胞をインクにみたてて、薄い細胞のシートに転写」するという服部博士の言葉通り、1~5はまさに印刷のプロセスそのものだ。
まず、1と2のプロセスは「毛細血管」という図柄の「原版づくり」にたとえられるだろう。
「1.患部の血管パターンを抽出」で、患部の毛細血管の細かなパターン(模様)を写し取り、これを「2.基板に血管パターンを描画」する。このとき、駆使されるのが現在の印刷の最先端技術の1つであるマイクロ印刷技術である。微小かつ精緻に写し取られた毛細血管のパターン(模様)は、ネガフィルムと同様の原理により、光の当たる部分と当たらない部分を微小かつ精緻に分けることができるフォトマスクに焼き付けられる。このフォトマスクと光触媒の技術を利用して、表面が疎水性の基板に対して、毛細血管のパターン部分だけが親水性になるように印刷が施される。
こうして出来上がった「毛細血管のパターンの印刷された基板」において「3.描画した血管パターン上に患者の正常な血管内皮細胞をは種」する。すると、基板上の疎水部分の細胞は流れ落ち、親水部すわなち「血管のパターンが印刷された部分」にだけ「4.は種した血管内皮細胞が血管パターン上に粘着」するのである。
昔の印刷に例えるなら、版木にインクが着けられた状態になった。
ここからいよいよ「インク付きの版木を紙に押しつけて印刷(転写)する」という段階に入るわけだが、実はこの「転写」のプロセスにこそ「マイクロパターン化血管内皮細胞の転写印刷」の最大の特徴があると服部博士は言う。
「転写する過程で血管内皮細胞が毛細血管の構造にひとりでになるんです。この現象は、森田教授と我々の共同研究グループが初めて発見しました」
できなかった太さの毛細血管を再生できる!? 「5.血管パターン上に並んだ血管内皮細胞を培地に転写」すると「6.血管内皮細胞が血管(管状)を形成」する。つまり、2次元の「血管のパターン」を転写すると、転写先で血管内皮細胞が自然に3次元の管状になってくれるというのだ。
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(C)大日本印刷株式会社 |
これまでも、血管内皮細胞がひとりでに血管(管状)を形成する事例は報告されていたという。
1999年、ある研究者が「血管内皮細胞を幅10μmで培養すると、ひとりでに血管(管状)を形成する」と論文で発表した。ただし、この論文では「幅30μmの培養では管状にならない」とされていた。つまり、この方法だと直径が10μm以上の血管はつくれなかった。
現在、合成高分子による人工血管では、成人の大動脈(直径20〜27mm)から微小血管(直径3mm)までがカバーされようとしている。直径3mm以下から、最も細い毛細血管の直径5μmまでの血管に関しては、臨床応用できる人工血管が存在していない。
「マイクロパターン化血管内皮細胞の転写印刷」の技術が確立すれば、この範囲の太さの血管の代替物を自身の細胞から新生することが可能となり、虚血性疾患の治療や「細胞シートを積層して厚みを出す」という再生医療にも大きな可能性が開かれることになるわけだ。
また、森田教授と服部博士らの研究の結果、細胞シートに毛細血管の代替構造を転写する際には、生体と全く同じパターンではなく、それに近いパターンの構造で十分だということもわかった。
「毛細血管には、細胞を生かし続けるために張り巡らさなければならない密度があります。生体内では、その密度に合うように、転写された毛細血管様の構造をあるべき構造へとどんどん修正してくれるのです。ですから、現在は、つくりやすい幾何学的なパターンのフォトマスクで実験しています(服部談)」
だからといって、どんなパターン(模様)でもいい、というわけではない。
「生体内の修正はできるだけ早く行われた方がいい。毛細血管の構造に近いパターンにしておくと、生体の組織と早くつながるというデータが出ています。そのための緻密なフォトマスクをつくり出すとき、我々印刷会社の経験とノウハウが役立っているんです」
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▲大日本印刷が開発したフォトマスクがぎっしりと詰まったケースを魅せながら解説する服部博士。 |
この技術によってつくりあげられた構造物が毛細血管の役割を果たすことは、マウスを使った動物実験レベルで実証された。
また、現象を森田教授が初めて発見した際には、血管内皮細胞が血管(管状)を形成するのにおおよそ1晩かかっていたが、現在は服部博士らの努力により、最新の印刷技術を駆使して30分〜2時間程度にまで短縮され、実験の進捗を飛躍的に早めた。
純粋な科学者の立場ではなく、科学者が研究を進めるために必要な新技術を提供するサポーターの立場で尽力する服部博士に、将来の夢について訊ねた。
「この10年の間に再生医療で使われる技術を実用化したいというのが夢です。10年後、私はまだ50歳そこそこ。引退する前にもう1つ、実用化された技術を広めるという仕事ができますから」
最新の印刷技術は、生命科学の最先端技術と結びついて、再生医療の大きな可能性の扉を押し開こうとしていた。
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