葛飾北斎も見た逆さ富士
江戸の昔、富士の前に立つ民家の板戸の小さなふし穴から光が差し込み、暗い部屋の障子に映った逆さ富士を葛飾北斎は、見たのである。北斎はその情景を「ふし穴の不二」として描いた。コンテナの暗闇の中で、現像班は、あの北斎が見たのと同じ「ふし穴の不二」をこの目で見たのだ。200年前にタイムトラベルしたような、不思議な気持ちだった。それなのに、写真で富士の姿をしっかり捕らえることができなかったのは、実に残念である。
村民が不完全な富士の写真を眺めつつ、目を細めた。太陽が移動して富士に逆光が射し始めていたからだ。同時にそれに気づいた湯本村長が、叫ぶ。
「ここから正反対の朝霧高原に、直ちに移動する。そこでもう一度挑戦だ!」コンテナトラックピンホールカメラ隊は、再び移動を開始した。 |
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富士山が写らなかったのは、富士山と空のコントラストが低すぎたということの他に、印画紙の感色性が関係していた。
モノクロ印画紙では紫色や青色の比較的波長の短い光に対する感度は高く、黄色や赤など波長の長い光にはほとんど感度がない。つまり青い空やかすんで青みを帯びた雪化粧の富士はネガ上では黒にしか表現できないということになる。肉眼でははっきり見えた富士山だったが、白黒の目には識別が難しい被写体だったというわけだ。
今回使用した印画紙の分光感度曲線
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最新の一眼レフカメラもデジタルカメラも、像を得る原理は、今回トラックの荷台に作ったピンホールカメラのそれと変わらない。今から2000年以上も昔、ギリシアの哲学者アリストテレスが、重なり合ったプラタナスの葉の隙間から差し込む光によって、日蝕の欠けた太陽が、地面に映し出されているのを観察した。その後、壁の小穴(ピンホール)から差し込む光が、外の風景を暗い部屋の内側の壁に映し出す装置「カメラ・オブスキュラ」が生み出された(図版1)。この装置は、太陽の日蝕の様子を観察したり、映し出された風景をなぞって絵を描いたりするのに使われていた。ルネサンス期には画家の遠近法描写の補助手段になったという話だ。
映し出された像を印画紙で残そうとしたのが、今回のピンホールカメラであり、さらにピンホールに、より明るく鮮明な像を得られるようにとレンズをはめたものが、現代のカメラへと進化した。
今回村民は、何分も動かず頑張っているが、写真発明当初は、何分どころではなかった。1826年、フランスのニエプスが、アスファルトを感光させ、金属板や石板に自宅の窓からの眺めを残すことに成功したが、撮影には8時間もかかった(図版2)。 |
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人を撮影するのは無謀だ。1837年、フランスのルイ・ダゲールが、ヨウ素蒸気で感光性を持たせた銀メッキ板で撮影、水銀蒸気で現像する「ダゲレオタイプ」(銀板写真)を発明(図版3)。
撮影時間は、10分から長くても2時間くらいになったがまだ長い。その後、すでに塩化銀が日光で黒化することを利用し、世界初のネガを作っていたイギリスのタルボットが、ネガからプリントが何枚も得られる「カロタイプ」(ネガ=ポジ法の原型)を発明。撮影時間は相変わらず長かったが、1850年代には、両タイプによる肖像写真が大衆に人気を博した。
当時の写真館の椅子には、モデルの頭を支える器具がついていた。その後、撮影時間は、イギリスのアーチャーが、コロジオン湿板法を発明すると、数秒に。同じくイギリスのマドックスが、ゼラチンを利用した乾板法(現在の写真乳剤の原型)を発明すると、1秒弱になった。
今回、あたりまえに利用している印画紙だが、その発明には多くの研究と実験を必要としたようだ。 |
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1.カメラ・オブスキュラ 2.ニエプスが撮った世界初の写真。タイトルは「屋根」。 3.ダゲレオタイプのカメラダゲールのサインが入ったものは世界に数台しか残されていないといわれる。 |
写真提供/日本カメラ博物館 |
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