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生命情報科学の源流

第4回 1941年:鋼鉄の伝説

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文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長 鈴木 理   構成協力/佐保 圭   取材協力/呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

 1941年、真珠湾攻撃をもって日本は米・英との戦争に突入。鋼鉄が次第に入手できなくなる状況下で仁科達のサイクロトロン建設は続く。戦争に勝つために、双方の科学者は、コンピュータを始めとする数々の新兵器を開発し、これが戦後の生命科学発展の基礎を形成する。同時に、これらの開発秘話は、鉄人28号や轟天号といった、平成の今日まで語り継がれる“鋼鉄の伝説”を生み出した。

“小”サイクロトロンの誕生

 ボーアが来日した1937年(昭和12年)に文化勲章が制定され、長岡半太郎や本多光太郎が第一回の栄誉に輝いた。この年4月、東京の小型サイクロトロンが稼動し、仁科研究室はサイクロトロンで作った放射性アイソトープをトレーサーとして生物に応用可能な、世界にまれな研究室の一つになった。もう一つは、1930年(昭和5年)にサイクロトロンを発明したアーネスト・ローレンスその人が所長を務めるカリフォルニア大学バークレー校の放射医学研究所だった。小サイクロトロンは直径26インチ。これがローレンス達のものと全く同じ大きさだった事には理由がある。当時、福島県原町(はらのまち・現南相馬市)に対米通信用の大無線塔があった。関東大震災の第一報を海外に伝えたのもこの施設。仁科達は、通信施設の予備磁石を小サイクロトロンに転用した。米側でも、カリフォルニアの対日通信施設で同じ磁石を使っていて、ローレンス達もこれを転用したのである。

 アイソトープを用いたトレーサー実験は、コペンハーゲンでのボーアや仁科の仲間、ハンガリー出身のへヴェシーが始めたもので、3人ともトレーサー実験の重要性を良く理解していた。やがてドイツからストックホルムへとナチスの手を逃れたへヴェシーは、戦争中の1943年(昭和18年)にノーベル化学賞を受賞した。さらに、ベルリンのレソフスキー達を追って、仁科はショウジョウバエやカイコの突然変異を研究した。小サイクロトロンからの粒子線照射の効果を調べ、さらに、高山の山頂と上越線・清水トンネル内での変異率を比較して宇宙線の生命への影響を調べた。ボーアからも仁科宛てに激励の手紙が届いた。

 小サイクロトロンが完成する以前から、仁科はその約10倍の規模を持つ大型サイクロトロンを建設しようとした。資金を得るために社会への様々なアピールを仁科達は求められた。陸軍関係者の前でのデモンストレーションでは、理研の用務員に放射性アイソトープを飲ませ、放射能が全身に拡散していく様子をガイガー管で追跡してみせた。仁科と、やはり医療への応用に強い関心を持つローレンスとの連絡は緊密となり、“大型”の建設準備のために嵯峨根遼吉を1935年(昭和10年)から一年間、カリフォルニアに留学させた。

 小サイクロトロンが完成した1937年(昭和12年)、呉では戦艦「大和」の建造を起工、横須賀では空母「翔鶴」の建艦が始まった。これ以前に日本が一から設計した空母は、小型を除けば「飛龍」型の二隻だけ。母艦航空隊の旗艦「赤城」は、ワシントン軍縮条約に従って建造途中で破棄された巡洋戦艦を改造したものだった。僚艦「加賀」は大型戦艦からの改造で、これは、建造中の「赤城」型二番艦が関東大震災で架台から滑り落ち損傷したための措置だった。これら航空母艦群が、後に真珠湾攻撃の主力部隊となる。

↓→1931年(昭和6年)以来、カリフォルニアのローレンス達は独占的にサイクロトロンを研究した。物理学の最先端を行くドイツにすら、開戦時にサイクロトロンは無かった。ドイツの物理学者達は、パリ占領後、ジョリオ=キュリーの研究所にあった1台を使う事になる。ローレンス達はまず26インチの装置を作り、さらに37インチへと発展させていった。仁科達の小サイクロトロン(26インチ、右写真)が完成したのは、1937年(昭和12年)4月。その電磁石(左下写真、改造前)はパウルセンアーク用で、福島県原町(現南相馬市)にあった大規模通信施設(右下の写真中央に無線塔)のために作られたものだった。予備の電磁石を仁科達に提供した日本無線電信株式会社は、そもそも、仁科研と西川研にまたがる理研の原子核実験室のスポンサーの1社だったから、仁科がこの磁石の存在を知った経緯も想像がつく。

↑仁科達の小サイクロトロンの電磁石

↑福島県原町(現南相馬市)にあった大規模通信施設

↑サイクロトロンとは、荷電粒子(電子のように電荷を持っている粒子)を直流磁場中で回転運動させ、これに同調した高周波電圧で加速する装置。 磁場中に電極(ディー)を入れ、粒子が電極間を通るごとに繰り返し加速する事により、一回の加速では到達できない速度まで加速する。加速につれて、粒子の軌道の半径は増加し、最後に、引き出し用電極(デフレクター)により、磁場の外へと取り出されて、標的に導かれる。この点で、同一軌道上を粒子が回りつづけるシンクロトロンと異なる。途中で気体分子と衝突して速度が落ちないように、加速は真空槽内で行われる。

↑1935年(昭和10年)に小サイクロトロンを作りはじめた頃から、仁科は、これをより大型のものへの1ステップと捉えていた。 1936年(昭和11年)には、ローレンスに60インチの装置の建設をもちかけている。ローレンス達は1939年(昭和14年)にこれを完成。全く同じ磁石が日本に輸入されたのは1938年(昭和13年)6月、石川島造船が取り付けを担当した。しかし、日本での大サイクロトロンの建設は難航をきわめた。非常にうまくいった小サイクロトロンを単純に大きくすればよいと考えたところに、落とし穴があったのである。

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