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生命情報科学の源流

第4回 1941年、鋼鉄の伝説

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マジックとウルトラ

 もう一つ、計算機を必要とする問題があった。それは、暗号の解読である。1921-1922年(大正10-11年)のワシントン軍縮会議の際、現地大使館に送った日本側暗号は米側に解読されてしまった。このために“対英米海軍力6割”という最低ラインが最初から知られて、7割でスタートした交渉が全く相手にされなかった。この苦い経験から、完全な暗号文を作る機械を求めて海軍は必死だった。1937年(昭和15年)にパープル暗号機を開発したのは田辺一雄。電話交換機用のロータリー・ライン・スイッチを使って各文字を4回変換、1字変換するたびに変換関係が変わっていくという高度なものだった。

 しかし日本海軍と外務省がパープル暗号機を過信したため、その運用体制に甘さが生じた。パープル暗号にはキーがあり、一度キーが知られると、同じキーが使われる10日間、すべての通信文の解読が可能だった。ただし、もしパープル暗号機を1台、持っていたならの話。そして、1940年(昭和15年)9月、日独伊・三国軍事同盟締結の二日前に、米国はパープル暗号機の模造品を作る事に成功した。これを成し遂げたのは、陸軍暗号解読班(SIS)のウイリアム・フリードマンである。パープル暗号通信を解読して得た情報は、マジックと呼ばれた。

 1941年(昭和16年)12月、日本は米国との最後の外交を重ねていたが、パープル暗号機を使った日本大使館と東京のパープル暗号通信は、またしても解読されていた。だから米側は、日本が開戦を準備しつつある事を知っていた。フィリピンと並んで真珠湾が攻撃の目標となる可能性も明白だった。それにもかかわらず、ホノルルにだけ届かなかった警告は、米側の単純なミスだったのだろうか。それとも、ルーズベルト大統領は、米国参戦への国民の支持と団結のために日本の先制攻撃を許したのだろうか。はっきりしている事は、日本海軍の真珠湾攻撃があれだけの効果をあげるとは想像していなかった点である。

 米国がマジック情報を持っていたように、英国にはウルトラ情報があった。ドイツによるエニグマ暗号機(三つのローターを使って文字を変換)の運用体制は日本より適切で、キーは一日に3回も変更されていた。英国政府は、ケンブリッジ、オックスフォード、ロンドンを結ぶ三角形の中心、ブレッチュリーに基地(パーク)を設営し、ケンブリッジ大学の関係者を中心に数学者、言語学者など、一万人を集め、枢軸側暗号を解読した。

 後にスパイ小説ジェームズ・ボンド・シリーズを生むイアン・フレミングを始め、意外な人物達がその一員だった事が今では明らかになっている。若き数学者アラン・チューリング達は、1940年に(昭和15年)“ボンブ”を開発、これは、エニグマの暗号化原理を数学的にまとめてスピードアップした装置で、二個1組のローターがエニグマの回転ローター一つの動きを再現した。

 1942年(昭和17年)末には42台、1944年(昭和19年)には75台、最終的には100台以上のボンブがブレッチュリーで稼動した。ローター数十個を持つ超エニグマを使った、独海軍のフィッシュ暗号通信を解読するために、チューリングの大学時代の指導教官、ニューマンは、1943年(昭和18年)、1500本の真空管を持つ計算機、コロサッスを完成した。これら計算機の末裔達は、やがて、人類未知の遺伝暗号の解読に使われる運命にあった。コロサッスを目前にしたチューリングは、自身のコンピュータを夢見るようになる。その目的は、生物の発生に際して体に対称性が生じる原理の解明だった。

↑大阪帝国大学から東京理科大学に移った清水辰次郎らが70年ほど前に実際に使用していた微分解析機。半径を変えながら円を描く「積分機」を複数組み合わせることで、積分計算を実行し、微分方程式の解をグラフの形で得た。

↑1946年(昭和21年)2月に完成した世界初の汎用コンピュータENIAC。総重量約30トン、2万本近い真空管、17万の抵抗、1万のコンデンサなど、途方もなく大きく複雑なこの機械は1955年(昭和30年)落雷により停止するまで10年近く稼動した。

→1945年(昭和20年)5月、ベルリン陥落の際に、日本大使館から米軍が押収したパープル暗号機。そのスイッチ部分がアメリカ国立暗号博物館に保存されている。パープル暗号機は正式には九七式欧文印字機。終戦時に、日本側が暗号機を破壊したため、この写真のものが現存する唯一のオリジナルである。

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