殺人光線
戦況が悪化すると大サイクロトロンを動かす電力もなくなり、1945年(昭和20年)4月13日の空襲で小サイクロトロンは運転不能になった。1943年(昭和18年)、海軍技術研究所の伊藤庸二大佐が、原爆開発を議論しようとする物理懇話会に大学の先輩である仁科芳雄を呼んだ事がきっかけとなり、仁科達は強力なマイクロ波発振管の開発に協力する事になった(海軍“勢号”計画)。伊藤の電波研究部では、電波探信儀、すなわちレーダーのマイクロ波発信のために“大勢力”磁電管を作ろうとしていたのである。1943年(昭和18年)秋、江崎と交代に東大理学部化学科を短縮卒業した野田春彦は師の水島三一郎が伊藤と親しかった事から電波研究部二課に所属していた。「二課は部品の開発を担当していたから、潜水艦がコンデンサーとかをドイツから運んでくると、関連会社に見せにいったりした。」
磁電管すなわちマグネトロンとは、直線状の陰極のまわりに円筒状の陽極を分割して配置した、一種の真空管。マイクロ波(波長1~10cm)発生のために1927年(昭和2年)、岡部金次郎と八木秀次が開発した。小谷正雄達、東大のメンバーに交じって、東大講師を併任した朝永振一郎も研究に参加、静岡県島田に作られた海軍の施設に泊まり込んだ。小谷と朝永は、周期的に電場をかけた電極から同じ周波数の電磁波が発振する現象を理論的に説明しようとする。ドイツ製電気部品だけではなく、ハイゼンベルクの論文までもが潜水艦(おそらく、1944年7月にシンガポールへもどった伊29潜)で運ばれた。
マイクロ波発振実験中に、たまたま近くで稼働中の航空機エンジンが停止した事から、海軍はこれを兵器に転用しようとした。島田の浴室で、朝永は仁科から意外な話を聞かされる。「海軍の本音は、米軍のパイロットを狙った殺人光線の開発らしい。これをZ計画と呼んでいる」。「マイクロ波はすぐに拡がるし、金属製の機体に反射されてしまうのでは」と朝永は応じた。B29のプロペラが止まってパイロットが死ぬ、そんな最終秘密兵器を担当者は夢見ていたのであろう。
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