孝和は長じて甲府藩勘定役を務める関五郎左衛門の養子となった。縁組みの時期も理由も明らかではないが、当時は家督を継げない次男以降の男子が養子に入るのは珍しくなかった。孝和も関孝和となったおかげで、甲府藩に出仕し、徳川綱重に仕えた。
生年や生地のほかに研究者を悩ませているのが、孝和がいつ、いかにして数学を学んだかという点である。幼くして大人の計算の誤りを指摘するなど、早くから数理に目覚めたようだが、直接のきっかけは吉田光由の『塵劫記』(1627年)を読んだことだとされている。
『塵劫記』のねずみ算 東北大学和算ポータル所蔵
『塵劫記』は光由が中国の『算法統宗』(1592年)をもとに編纂した数学書である。
ここで和算の歴史を少したどれば、中国で発達した数学が日本にはいってきたのは飛鳥時代だとされている。この時代、すでに官職として算博士が置かれ、実用数学と理論数学を研究し、また数学教育の任にあたったという記録が残されている。室町時代には中国からソロバンが伝来、これが改良されながら独自の発展を遂げた。戦国時代になると、武将たちのなかに戦さや財政の必要から、数理に明るい者を重用する傾向があらわれるようになった。
それが和算として発展するのは江戸時代になってからである。戦国の世が終わり、失職した武士の中にはソロバン塾で生計を立てる者も出てきた。藩士にも武より文が求められ、貨幣経済の発展とも呼応して経理に強い者が登用されるようになった。このような時代背景のもと、ソロバンの教科書としても数学入門書としてもよく読まれたのが『塵劫記』だった。
こうして数学のおもしろさにとりつかれた孝和だが、その後はとくに師にはつかず独学で学んでいったと考えられている。孝和の師となったのは書物だった。とくに大きな影響を受けたのは、中国から伝わった数学書『算学啓蒙』(1299年)と『楊輝算法』(1274-75年)だった。このうち朱世傑が著した『算学啓蒙』によって最初に天元術にふれたというのが通説である。
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