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 江戸へ出た幸民は高名な蘭方医足立長集の門をたたいた。これで思う存分蘭学を学べると思った矢先、兄が急病にたおれ、そのまま亡くなってしまった。親族は幸民に家督を継がせようとしたが、彼は学問途中だからと固辞し、兄の三歳の子に家を継がせて勉学に邁進した。

 その学問的才能と刻苦精励にいたく感心した長集は、一年後、新たな師として、蘭方医仲間の坪井信道を紹介した。信道は当時、江戸で伊東玄朴と名声を二分し、その学塾では最先端の蘭方を学べると評判が高かった。

 このとき、学塾で幸民と机を並べたのが、のちに適塾を開いて福沢諭吉ら維新の人材を輩出する緒方洪庵である。ふたりはよきライバルとしてまた親友として、終生にわたる友情を結んだ。


提供=緒方正人

 ここでもたちまち頭角をあらわした幸民は師から水戸藩医の青地林宗に紹介され、彼が著した『気海観瀾(きかいかんらん)』の増補改訂を依頼された。この書は体系的に物理学を紹介した日本最初の物理学書である。その重要な書物の改訂を二十代前半の幸民がまかされたのだから、彼に対する期待がいかに大きかったかがわかる。

 研鑽を積むこと四年余り、学業は大いに進んだが、隆国の意向もあっていったん三田に帰った。その後、隆国の許しをえて再び江戸にのぼり、芝露月町で開業した。その暮れには、坪井塾時代に知り合った青地林宗の三女秀子と結婚した。時に幸民二十六才。まさに順風満帆の人生だった。

 ところが好事魔多しとか。新婚わずか二か月目のある夜、幸民は酒席でのいさかいで刃傷沙汰を起こしてしまうのである。この事件については記録がなく、真相は今もわかっていない。幸民は酒を好んだが、つねに節度をもって接していた。藩の上役を切り付けて怪我させるなどにわかに信じがたいが、幸民が泥酔して刃物をふるったという話はたちまち藩内に広まった。

 隆国の配慮によって重大な処分は免れたが、幸民は江戸所払いのうえ蟄居謹慎を命じられ、新婚の妻を残して相州浦賀でひとり淋しく過ごすことになる。若気のいたりとはいえ、学問でも私生活でもこれからという時のやけどの痛みは大きかった。

 鬱々たる日々を送りながらも、幸民の学問に対する情熱は衰えなかった。この間に『気海観瀾』の増補改訂を仕上げ、蘭学者宇田川榕庵の化学書『舎密開宗(せいみかいそう)』で化学を学び、西洋の科学技術を紹介する『遠西奇器述』にも着手した。五年後、ようやく許された幸民は江戸に戻り、その後、藩医に復帰することができた。


関連用語

坪井信道
江戸時代の蘭学者 (1795-1848)。漢方医学を学んだのち、江戸で宇田川榛斎に蘭方(西洋医学)を学んだ。安懐堂、日習堂などの蘭学塾を開いて近代的な医学教育を行った。人格者として知られ、川本幸民をはじめ、緒方洪庵、青木周弼、杉田成卿、黒川良安など多くの蘭学者がそのもとから育った。
青地林宗
江戸時代の蘭学者。 (1775-1833)。杉田玄白に蘭学と蘭方を学び、大坂・長崎遊学後、江戸で蘭方医となる。48歳で幕府天文方の翻訳方となる。オランダの自然科学書を翻訳した『気海観瀾』は、日本最初の物理学書として高く評価されている。三女秀子は川本幸民の妻。
緒方洪庵
江戸時代の蘭学者。 (1810-1863)。江戸で坪井信道、宇田川玄真に学び、大坂に蘭学塾「適塾」を開き、福沢諭吉、橋本左内、大村益次郎、佐野常民ら多くの人材を育てた。種痘の普及に努め、江戸でコレラが流行した際には、治療の手引き書をつくって医師に配布した。その『病学通論』は日本最初の病理学書とされる。

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