孝和の偉業は集った多くの弟子によって、「関流」和算として継承、発展させられた。なかでも真の後継者と呼ばれるのにふさわしいのが建部賢弘である。
年少のころから兄賢明とともに数学を学び始めた賢弘は、若くして関の門をたたき、たちまちその才能を開花させた。彼の業績はスイスの数学者オイラーに先駆けて円周率πを求める公式を発見したり、円理を発展させて円周率を41桁まで求めるなど、師と同様世界的なものだった。この優秀な弟子たちをえて、晩年の関の仕事は彼らとの共同作業が多くなった。
賢弘の業績のひとつが、兄と協力して孝和の数学を伝える数学書を編集・刊行したことである。貞享2年(1685年)には孝和の主著『発微算法』を補う『発微算法演段諺解』を上梓している。『発微算法』が画期的な数学書であることはすでに述べたが、難点は不親切でわかりにくいことだった。傍書法や演段法の説明すらなかった。関の偉業を伝えたいと願う賢弘は、これに詳細な注を施して刊行した。
このとき賢弘は若干21歳だった。その後も数多くの著書の刊行に携わった。師を深く尊敬する賢弘は、「解伏題の法則(行列式)」をつくったわが師関孝和は、まさに神というべきだろうと讃えている。
幾多の業績を残した「算聖」とうたわれた関孝和も、最晩年は病気がちで思うように研究に専念できなくなった。そして宝永5年(1708年)、病のため亡くなった。
弟子には恵まれた孝和も、家族の縁には恵まれなかったようだ。孝和の家族に関する資料はほとんど残されていないが、過去帳などからわかる範囲では、遅く結婚し、40代でふたりの娘をもうけたが、不幸にも長女は幼少期に、次女は10代半ばで亡くなっている。跡継ぎがいない関家が養子として迎えたのが、弟永行の息子新七郎だった。冒頭でもみたように孝和資料の散逸には、この新七郎の不行跡が関与していた。
孝和の死により家督を相続した新七郎は甲府勤番士として赴任した。赴任11年目、甲府城中の金庫から大金が盗まれるという大事件が勃発した。この事件の捜査過程で、新七郎が役目をさぼって他の番士と博打をしていたことが露見してしまった。当然、重い処分を科せられ、関家は途絶えた。その際、孝和に関する資料も没収され、散逸してしまったのである。
関孝和の墓 東京都新宿区・浄輪寺
孝和の死後、彼の開拓した和算は弟子たちによってさらに高度な数学に発展させられ、江戸和算の全盛期が築かれた。額や絵馬に数学の解法を記して、神社などに奉納するという日本独自の算額の風習が広まったのもこうした隆盛の反映だっただろう。しかしその和算も、明治期にはいると洋算にとってかわられて衰退した。それにつれて孝和の業績も一部の研究者を除いて忘れられていった。
その孝和が戦前の一時期、にわかに復活したことがあった。皮肉なことに、国粋主義的な風潮のなかで、世界に誇る大数学者として小学校の教科書に紹介されたのである。こうした評価には我田引水的な過大評価もあったが、孝和の数学が世界的レベルにあったことは否定しえない。
かつては、日本には世界的な数学者は存在しなかったというのが通説になっていた。その理由は、公理から説き起こして、抽象的な思考を厳密に進めるという思考スタイルが、日本人には適さないからだといわれてきた。また日本ではソロバンが発達し、計算に重きが置かれたため、数学が理論的に発展しなかったのだという説もあった。しかしこれらの議論は偏っているというだけでなく、前提からして間違っている。
日本には関孝和も、建部賢弘もいた。ほかにも優れた数学者を輩出した。江戸期には数学書がベストセラーになり、西洋と同じ記号による数学が隆盛をきわめた。日本人は決して数学が嫌いなわけでも、数学的思考が苦手なわけでもなかったのである。
孝和に正当な評価を与える試みは戦後発展したが、その業績には未解明の部分も多い。傍書法は彼ひとりで開拓したものか、その過程で西洋数学の影響はなかったのか。それらを含めて鎖国日本を代表する知性の業績解明は、抽象的思考の極みであるその学問を通して日本人の思考そのものを問う作業となるはずである。
|