スラバヤ沖の酸素魚雷
すでにオランダはドイツ占領下にあったが、王室はロンドンに脱出し、フランスのように降伏していなかった。このため、インドネシアはオランダ領のままだった。1942年(昭和17年)1月、日本海軍空挺部隊はセレベス島の飛行場を制圧。2月14日には陸軍空挺隊がスマトラ島の精油所を制圧した。日本軍陸上部隊を護送する船団の接近に対して、26日、英重巡エクセターと米重巡ヒューストンを中心とする10余隻の連合国艦隊がジャワ島スラバヤ港を出港した。一見、威風堂々のこの艦隊は、実は残存艦船の寄せ集めでしかなかった。重巡「那智」「羽黒」を中心とする日本海軍部隊がこれを迎え撃った。熱帯の強い日差しの中、ジャカルタ沖では、島々の濃厚な香りが海面までただよっていた。両艦隊が並行に進む中、10数隻の日本駆逐艦が93式酸素魚雷を発射した。傷ついた連合国艦隊は煙幕を張ったが、日本軍は夜襲をしかけた。突然の照明弾に連合国将兵が驚く中で、「那智」と「羽黒」が12本の魚雷を発射、連合国の軽巡2隻と駆逐艦3隻が沈没した。各国艦船はバラバラに戦場を離脱、まずはスラバヤに逃れた米・豪の艦船は、さらにオーストラリアへ逃れようとして、別の日本艦隊に突入してしまった。重巡「三隅」の砲撃で、米重巡ヒューストンと豪軽巡バースは沈没。一方、英重巡エクセターと2隻の英駆逐艦は、日本軍小型空母の艦載機の攻撃で最期を迎えた。
4万メートルもの射程を持つ93式酸素魚雷の性能はこの時まで秘密にされていた。空気よりも酸素を使った方が燃焼効率が良い。空気を使えば余った窒素がアワになり雷跡を示してしまうが、酸素ならこれも生じない。しかし、爆発しやすい酸素魚雷は極めて危険な代物。死者を出しながらも、酸素魚雷を開発したのは日本海軍だけだった。
|
↑1942年(昭和17年)2月、日本艦隊はスラバヤ沖で連合国艦隊と遭遇。日露戦争以来はじめての艦隊戦となり、米重巡など5隻を撃沈。写真は海戦直後の重巡「羽黒」。連続砲撃によって砲身は焼け、塗装が剥げ落ちている。 |
|
|
|
↑日本だけが完成にこぎつけた酸素魚雷は、長い射程距離や雷跡の見えにくさに加え、速さ、破壊力においても他国の魚雷すべてをしのいでいた。写真はインペリアル・ウォー・ミュージアム(英国ダックスフォード)に展示されている酸素魚雷。 |
|
|