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生命情報科学の源流

第5回 1942-1943年:戦時下の生命論

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文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長 鈴木 理   構成協力/佐保 圭

 1942年(昭和17年)夏、交換船として連合国側の関係者をアフリカへと運ぶ龍田丸が横浜港を出港した頃、東京の理化学研究所では仁科グループの素粒子論をめぐる討論が絶頂期を迎えていた。すでに5月、ミッドウェー海戦で日本海軍は4隻の航空母艦を失い、戦局は悪化の一途をたどっていた。

1943年(昭和18年)12月に完成した大サイクロトロンの電磁石の前での記念撮影。立っている左から8人目に仁科芳雄、その向かって右隣りに長岡半太郎がいる。

スラバヤ沖の酸素魚雷

 すでにオランダはドイツ占領下にあったが、王室はロンドンに脱出し、フランスのように降伏していなかった。このため、インドネシアはオランダ領のままだった。1942年(昭和17年)1月、日本海軍空挺部隊はセレベス島の飛行場を制圧。2月14日には陸軍空挺隊がスマトラ島の精油所を制圧した。日本軍陸上部隊を護送する船団の接近に対して、26日、英重巡エクセターと米重巡ヒューストンを中心とする10余隻の連合国艦隊がジャワ島スラバヤ港を出港した。一見、威風堂々のこの艦隊は、実は残存艦船の寄せ集めでしかなかった。重巡「那智」「羽黒」を中心とする日本海軍部隊がこれを迎え撃った。熱帯の強い日差しの中、ジャカルタ沖では、島々の濃厚な香りが海面までただよっていた。両艦隊が並行に進む中、10数隻の日本駆逐艦が93式酸素魚雷を発射した。傷ついた連合国艦隊は煙幕を張ったが、日本軍は夜襲をしかけた。突然の照明弾に連合国将兵が驚く中で、「那智」と「羽黒」が12本の魚雷を発射、連合国の軽巡2隻と駆逐艦3隻が沈没した。各国艦船はバラバラに戦場を離脱、まずはスラバヤに逃れた米・豪の艦船は、さらにオーストラリアへ逃れようとして、別の日本艦隊に突入してしまった。重巡「三隅」の砲撃で、米重巡ヒューストンと豪軽巡バースは沈没。一方、英重巡エクセターと2隻の英駆逐艦は、日本軍小型空母の艦載機の攻撃で最期を迎えた。

 4万メートルもの射程を持つ93式酸素魚雷の性能はこの時まで秘密にされていた。空気よりも酸素を使った方が燃焼効率が良い。空気を使えば余った窒素がアワになり雷跡を示してしまうが、酸素ならこれも生じない。しかし、爆発しやすい酸素魚雷は極めて危険な代物。死者を出しながらも、酸素魚雷を開発したのは日本海軍だけだった。

↑1942年(昭和17年)2月、日本艦隊はスラバヤ沖で連合国艦隊と遭遇。日露戦争以来はじめての艦隊戦となり、米重巡など5隻を撃沈。写真は海戦直後の重巡「羽黒」。連続砲撃によって砲身は焼け、塗装が剥げ落ちている。

↑日本だけが完成にこぎつけた酸素魚雷は、長い射程距離や雷跡の見えにくさに加え、速さ、破壊力においても他国の魚雷すべてをしのいでいた。写真はインペリアル・ウォー・ミュージアム(英国ダックスフォード)に展示されている酸素魚雷。

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