ロレンソ・マルケスの浅間丸
1942年(昭和17年)6月、横浜港を浅間丸が出港した。船腹には日の丸をはさんで大きな白十字が二つ描かれていた。上海を出港したイタリア船コンテ・ヴェルデ号とともに、開戦によって極東に取り残された米側関係者1500名を乗せて、アフリカ大陸のポルトガル領ロレンソ・マルケス(現モザンビーク)を目指した。上海で開戦を迎えたコンテ・ヴェルデは、日本政府に接収されて上海に係留されていた。米国からは、中立国スウェーデン籍のグリップスホルム号が日本側関係者1500名を乗せてニューヨークを出港。ロレンソ・マルケス港で乗客を交換後、それぞれの側へともどった。
日本へとむかう浅間丸には、都留重人(1912−2006)夫妻や鶴見和子(1918−2006)、俊輔(1922〜)姉弟が乗船していた。都留は、1930年(昭和5年)に「反帝同盟」に参加したとして第八高等学校を除籍された。このため、日本の大学には進学できなかった。翌1931年(昭和6年)8月に大洋丸で横浜からカリフォルニアへ渡航し、1933年(昭和8年)ハーバード大学の学生となった。シュンペーターのもとで経済学を学び、サミュエルソンやガルブレイスに伍しながら頭角をあらわし、講師になっていた。
ハーバード大学を退官するホワイトヘッドの最終講義を、1937年(昭和12年)、都留は聴いた。ラッセルとともにケンブリッジ大学で「プリンキピア・マテマティカ」を著したホワイトヘッドは、1924年(大正13年)にハーバード大学に移っていた。退官後のホワイトヘッドの講演「不滅について」を聴いたのは、鶴見俊輔。後藤新平の孫だった鶴見は、裕福な家庭に反抗して不良少年になった。1939年(昭和14年)、ハーバード大学に入学。ルドルフ・カルナップやバートランド・ラッセルから哲学を学んだ。この二人は公式にはシカゴ大学に所属していたのだが、ハーバード大学にも出入りしていたらしい。鶴見や都留は、戦後の1946年(昭和21年)、渡辺慧や武谷三男と共に雑誌『思想の科学』を発行する。
戦争中のほぼ全期間を、ラッセルは英国を離れ米国で過ごした。一方、ウィーン学団の主要メンバーだったカルナップは、1935年(昭和10年)にナチスをのがれて渡米し、他のメンバーの米国への脱出を助けた。ウィーン学団は論理実証主義に基づき、物理学と数学を出発点として全学問を体系的に再編成する事を目標としたが、仲間内や関係する学者の中にはユダヤ人が多く、狂信的な学生にシュリックが射殺されると、メンバーの多くが海外へと逃れた。
客船として残った浅間丸やコンテ・ヴェルデは幸運だった。「浅間丸」の後継としてサンフランシスコ航路に就航するはずだった「橿原丸」と「出雲丸」は、建造途中から空母「隼鷹」と「飛鷹」に改装され、中部太平洋で米海軍と死闘をくりひろげた。欧州航路の独客船「シャルンホルスト」は横浜で開戦を迎え、空母「神鷹」へと、南米航路の「あるぜんちな丸」は「海鷹」に改装された。しかし完成した時には、これらの空母に搭載すべき航空部隊は壊滅していた。
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↑1941年(昭和16年)に未成客船「橿原丸」から改装されて完成した空母「隼鷹」。こういった豪華客船は、有事には海軍に接収されることを前提に建造されていた。ミッドウェーで正規空母4隻を失った後、ただ2隻残った翔鶴型とともに「隼鷹」は南太平洋海戦やマリアナ沖海戦などで米軍と死闘をくりひろげる運命にあった。 |
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