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[第3回]ペーパークラフト・アーティスト 光武利将

洋服の仕立てが展開図との最初の出会い

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光武利将さんに聞く【後編】

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そんな「ペーパークラフトの達人」は、どんな少年時代を過ごしたのだろう。光武さんは1972年5月、静岡県富士市、富士山のふもとで生まれた。

光武 母親が紳士服の仕立てをやっていまして、今思えば、その「型紙」が洋服の展開図なんですよね。その型紙通りに裁断した布を縫い合わせて、立体の「洋服」になるわけですから。しっかり仮縫いして、新聞紙などに型紙をチャコ・ペンシルでトレースして、それをノリで生地に張って、切って…。自宅の隅でやっていました。

記者 そこで、光武少年はどんなふうに過ごしていたんですか?

光武 僕、小さい頃は体が弱かったので、家にほとんどいることが多かった。それでも子どもですから、静かにさせるために、針と糸を使ってボタン付けとかやって遊んでいたんです。積木とかだと音を出してうるさいので、一番静かに遊ばせるためにはボタンつけ…たぶん、4歳とか5歳とかだと思います。

記者 おもしろかったんでしょうか?

光武 たぶん、猛烈におもしろかったから、黙ってやっていたんでしょうね。最近、紙工作の教室で小さい子が横で見てたりすると、黙ってずっと30分、1時間、猛烈に集中しちゃう子がいます。恐らくそういうノリで、口から泡でも出そうな勢いで、黙ってやっていたんだと思います。

▲子どもの頃から、工作に対する興味は人一倍あった光武氏だが、生まれ育った環境もまた、ペーパークラフト・アーティストが誕生する重要な要素であった。

記者 紙の工作、つまり、ペーパークラフトに近いことを始められたのは、いつ頃ですか?

光武 小学校の中・高学年の時、工作クラブというのがあって、紙工作はよくしていたと思います。船をつくってましたね。飛行機は流石に紙飛行機になっちゃうんで。紙でつくって、ニスを塗って防水するんですよ。

記者 船なら木でつくった方がよいのでは?

光武 木は削ったりが面倒くさくて…紙の方が早いので。

記者 そう言えば、静岡には田宮模型をはじめ、模型に関わる会社が多いですよね。何か理由があるのでしょうか。

光武 かなり古い時代から「木型模型」で有名だったと聞いています。僕なんかよりももっと前の世代の話なので、くわしくは知りませんが、なんとなく形はできている木型があって、削りだして、組み立てていく。かっこよく作るにはものすごくテクニックがいるという模型なんですね。学校の図書館にも「木型模型の作り方」というのがあって、よく読んでいました。それで、木材模型が盛んだったところにアメリカからプラスチックの模型、いわゆるプラモデルが入ってきたとき、模型屋というくくりで静岡に根付いたのだと思います。

記者 そんな静岡の風土が、潜在的に光武さんのペーパークラフト好きにつながっているのかもしれませんね。では、中学や高校では、かなりのものを紙でつくったんじゃないですか?

光武 いえ、中学から高校の途中まではサッカーをやっていましたので、サッカー漬けでした(笑)。

記者 え? 紙工作はやらなかったんですか?

光武 記憶にはありません。ただ、先日、高校時代の友達に会った時、おもしろい話を聞かされました。学園祭で門をつくる話があった時に、こういう形にしよう、ああいう形にしようって話し合っていたら、次の日、僕が紙でつくってもってきたらしいんですよ。僕自身は思い出せないんですけれど、昔から「結構、なんでも簡単に紙でつくってきた」っていう話をされて、そうだったのかなって。

記者 ご自身では思い出せない…つまり、それだけ自然に、というか、意識せずにつくっていたってことでしょうか?

光武 そうかもしれません(笑)。

記者 では、ペーパークラフトとの出会いは?

光武 高校を卒業してデザインの専門学校に入学して、舞台セットをつくったり、ディスプレイをやったりしていました。その後、23歳のとき。設計事務所で建築の完成模型をつくるようになりました。と言っても、完全なペーパークラフトではありません。紙で発泡スチロールを挟みこんだりする模型です。

記者 では、どうして「ペーパークラフト・アーティスト」として独立されたんですか?

光武 これしかできなかったんですかね。基本的に飽きっぽいというかせっかちなので、長くいろんな人の手をかけて完成させるのは待ちきれない。早く完成させたい。建築物ではそうはいかない。「とにかく自分で早く完成させたい」というところから、26、27歳の頃、ペーパークラフトの世界に移ってきたんです。

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