幸民は医学を修めるかたわら、その基本にある物理学や化学に対しても並々ならぬ探求心を示した。それを培ったのが『気海観瀾』の増補改訂作業だった。蟄居中に着手したその作業を通して、幸民は物理学や化学が医学とは別に研究すべき重要な学問分野であることをあらためて認識させられた。
幸民が義父との約束を果たして『気海観瀾広義』を上梓したのは嘉永四年(1851年)のことだった。これは『気海観瀾』が薄い一巻本であるのに対し、十五巻全五冊という大部の書物であり、実際にはまったく別物とよんでよいものだった。内容的にも物理学を中心に、化学、動物学、植物学、鉱物学、天文学など幅広い分野の知識を網羅しており、日本近代科学史上における記念碑的な著作といえるものだった。これによって気鋭の洋学者川本幸民の麗名は大いに上がった。
幸民の科学者としての活躍は化学の分野にもおよんだ。
蕃書調所に就任した安政三年(1856年)には『兵家須読舎密真源』を上梓した。これはドイツ人モリッツ・マイヤーの化学書を翻訳したものである。さらに同じドイツ人シュテックハルトの化学入門書「化学の学校』をその第二版をもとに翻訳し、さらに第三版を入手したため補注を加え、万延元年(1860年)『化学新書』として出版した。
元素、化学反応、記号を用いた化学式など、当時の西欧化学の最新知識を詳述した本書の影響力は絶大で、わが国近代化学の礎となった。
ここで注目すべきは、現在の化学にあたる用語の訳語が、「舎密」(せいみ)から「化学」に変わっていることである。化学を舎密と訳したのは前出の宇田川榕庵である。彼がウィリアム・ヘンリーの化学入門書を翻訳した『舎密開宗』出版した際に、その語を初めて用いたのである。舎密はオランダ語で化学を意味する”Chemie”の発音(「シェミー」)からとったものである。以後、舎密が一般的に化学を指す用語として用いられてきた。
幸民がなぜ舎密を化学と改めたかについては諸説ある。一説には中国の翻訳書の影響ではないかと指摘されているが、確証はない。いずれにしても彼が最初にこの用語を用いたのはまちがいない。この後、舎密と化学は明治初年まで併用されたが、やがて化学が定着していった。
幸民が初めて使った科学用語には、ほかに「蛋白」「大気」「合成」などがある。
幸民が科学者としてすぐれていたのは、たんに西洋の科学技術を理論的に紹介しただけでなく、それをもとにみずから実験を行ったことである。
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