幸民は生涯で三度も大火に会い、その都度家を焼け出されている。その幸民が化学知識を駆使してつくったのがマッチだった。火難の相があるとしか思えない幸民が発火道具をつくったというのは皮肉である。
このマッチについてはおもしろいエピソードが残されている。
嘉永元年、幸民がある裕福な商家に往診に出かけたときのことである。その主人が西洋のマッチについて言及し、冗談のつもりで、もしマッチを作れたら五十両を与えると言った。負けず嫌いな幸民はこれを受けてマッチの製作にとりかかった。
当時のマッチは材料に発火点の低い黄燐を使っていたため、製作は爆発の危険と隣り合わせだった。しかし幸民はひるまずに実験を重ね、ついに試作に成功した。商人の前でマッチで火をつけて見せると、商人はあれは冗談だといって逃げようとしたが、謹厳な幸民は許さなかった。その後、この話があちこちに広まったため、商人は引っ込みがつかなくなり泣く泣く五十両を支払ったという。
もうひとつ幸民がその化学知識で挑んだのが写真術だった。写真の始まりは1830年代、フランスの画家ルイ=ジャック・ダゲールが保存可能な写真を発明し、「ダゲレオタイプ」と名づけたのが最初とされている。ダゲールの写真術は日本では銀板写真とよばれたが、複製ができないことや、撮影に長時間かかることなど、欠点も多かった。その後、イギリスのフレデリック・アーチャーがガラス板の上にコロジオンという薬剤を塗布した湿板写真を開発した。複製が可能で、撮影や保存にも適したこの技術は急速に普及した。
幸民は『気海観瀾広義』中で銀板写真に言及しているが、嘉永四年(1851年)には実際に銀板写真の撮影に挑戦し、見事これに成功した。機材から現像液、定着液まですべてが手製だった。これをわが国におけるもっとも早い写真撮影とみなす研究者もいる。
その十年後、咸臨丸の使節団の中に滞米中に写した複製写真を持ち帰った者がいた。それが湿板写真であることを即座に見抜いた幸民は、やはりすべて手作りでそれをつくり、複製にも成功した。
川本秀子 日本学士院所蔵
幸民はこの湿板写真で自分と妻秀子の写真を一枚ずつ撮った。この写真は現在も日本学士院に保管されている。秀子の写真撮影は、長年苦労をかけた妻への幸民の感謝の気持ちをあらわしたものだろう。そう見ると写真の秀子は表情は固いが、どこかうれしそうに見える。
幸民の実験精神は、火と並んで彼の人生に縁のある酒づくりにも示された。黒船来航の年、幸民はペルーが持って来たビールを自分の手でつくろうと思い立ち、芝露月町の自宅に炉を築いて試醸にとりかかった。その年の九月、ビールづくりに成功した幸民は、蘭学者を招いて盛大な試飲会を開催した。それはまさに西洋を飲みほす気概を示したものだった。この試醸によって幸民はビール醸造の始祖という栄誉もになうことになった。
黒船ついでに電信機の製作についても少しふれておこう。提督ペリーが最初の来日で幕府に電信機を献上したことはよく知られている。それからまもなく幸民は弟子の松木弘安を指導して薩摩藩江戸屋敷で電信の実験を何度も行った。幸民は斉彬の依頼で電信に関する文献を翻訳していたから、電信技術にも精通していたのである。
弘安はその後、鹿児島で無線の実験を成功させたり、明治になってからは神奈川県知事として東京-横浜間の電信開設に尽力するなど、わが国電信事業の発展に大きく貢献した。
このように幸民の業績は幅広く、その多彩さはかの平賀源内にも匹敵すると評価されている。
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