歴史に残る大数学者といえば西洋の数学者と相場が決まっている。古代ギリシアのピタゴラス、ユークリッド、アルキメデス、17世紀のデカルト、ニュートン、ライプニッツ、18世紀のガウス、19世紀のリーマン。少し知識があれば、ガロア、アーベル、オイラー、フェルマー、カントールなどの名も挙がるだろう。
しかしそこに日本の数学者の名が並べられることはまずない。これはわが国の数学が明治以降、西洋数学(洋算)の影響下に発展したことを考えれば、仕方がないところだろう。とはいえ、日本にも西洋の数学者に匹敵するすぐれた数学者が存在しなかったわけではない。その筆頭がニュートンとほぼ同時代に活躍した和算の大家関孝和である。
関孝和 日本学士院所蔵
和算とは江戸期の日本に独自に発達した数学で、記号を使って高度な代数や幾何を解くという点では洋算と変わらなかった。また、そのレベルも同時代の西洋の数学と肩を並べるほどだった。その発展の立役者となったのが孝和である。
孝和の研究でよく知られているのが円周率の計算である。孝和は正13万1072角形を使い、円周率を小数点以下11桁まで求めた。連立方程式の解を求める公式をつくる過程で発見した行列式は、ヨーロッパに先駆ける発見だった。n次方程式の近似的な解を求める方法の考案、ベルヌーイ数(分数の級数)の発見、円理(円に関する計算)の創始など、いずれも当時のヨーロッパの研究水準と遜色ないものだった。
これほどの業績を挙げた関孝和とはどのような人物だったのだろうか。その探究はしかし、ひとつの大きな壁に直面する。それは孝和に関する資料、とくにその生涯に関する資料がきわめて少ないことである。その結果、彼の経歴にはいまだに多くの謎が残されている。第一の謎はその生年である。
孝和が幕臣内山永明の二男として寛永年間に生まれたこと、没年が宝永5年(1708年)であったことは資料からはっきりしている。ところが肝腎の生年が、寛永14年(1637年)と寛永19年(1642年)の二説あって、どちらとも特定できていないのである。その関連で生誕の地も上州藤岡と江戸小石川の二説があってやはり決定できていない。
このように基本的事実からあいまいな理由のひとつは、一般的に当時の幕臣に関する資料がほとんどないことにある。特に孝和の場合は、のちに述べるように養子新七郎の不行状により関家が断絶し、資料が散逸してしまったことも大きいとされている。
残された乏しい資料を精査した和算研究者佐藤賢一氏は、1630年代から1650年代までという幅広い可能性を指摘している。この議論は説得力があるが、ここでは混乱を避けるため通説に従って1640年頃としておくことにする。
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