好奇心旺盛な孝和は、数学だけでなく天文学、暦学、測量学から機械仕掛け(からくり)などにも関心をもち、その才能を多方面で発揮した。
暦学では改暦の研究が知られている。それ以前の約8百年間にわたって使われてきた宣明暦は、このころには誤差が大きくなって使い物にならなくなっていた。これを改めるため徳川家宣(徳川綱豊)は新しい暦の制定を孝和に命じた。
孝和は最初の主君綱重亡き後、その子綱豊に仕え、綱豊が六代将軍として江戸城にはいると、随って江戸詰めとなった。その後は勘定畑を歩んで勘定方吟味役にまで出世していた。その主君の命とあって、孝和は一大決心をし、中国の「授時暦」を参考に暦学を数学で基礎固めする作業からとりかかった。孝和の研究は大きな成果を挙げたが、その徹底性ゆえに作業自体の進行は遅れた。
このとき孝和のライバルとなったのが、天文学者渋川春海(二世安井算哲)である。春海は碁の家元(碁所家)に生まれ、碁を通して諸大名との親交があった。春海は西洋の暦法を採り入れて誤差を修正した暦をいち早く完成させた。彼の暦は完全なものではなかったが、政治力も使いながら貞享暦として採用させるのに成功した。主君の命を果たせなかった孝和の落胆は大きく、それが彼の数学研究をも衰退させたともいわれている。
孝和の機械仕掛けの腕を示すのが、江戸城内のからくり時計修理にまつわるエピソードである。中国渡来のこの時計には、一定時ごとに中国人形がはしごを登って鐘をたたくという仕掛けが施されていた。しかし壊れてからはお抱えの時計師たちも誰一人手をつけられなかった。これを聞いた孝和は修理を申し出て、苦心の末、見事修理を成し遂げたという。
このほか江戸から甲府へ赴く途次、駕籠の中から見た地形を絵図に詳しく記録して甲府公に献上したとか、江戸城内にあった伽羅(きゃら)の香木を、さまざまな重さに正確に切り分けるよう命じられ、その場で線を引いて返すと、寸分の狂いもなく切り分けられたといったエピソードなども伝えられている。
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