戦時下の大サイクロトロン建設
翌1938年(昭和13年)、長崎では「大和」型二番艦「武蔵」と「翔鶴」型二番艦「瑞鶴」の建艦が並行して始まった。仁科達の大型サイクロトロン建設費の大半は、磁石の購入費だった。価格が国内の半分以下だったため、ローレンスの助けで2台の磁石を米国に注文し、1台を輸入、もう1台をローレンスに寄贈する事に決定した。もし国産に決めていたなら、建艦ラッシュのために良質の鉄が入手できず、完成する事はなかっただろう。陸軍もまた、主力中戦車、97式の生産を1937年(昭和12年)から開始していた。海軍の96式艦上戦闘機、96式陸上攻撃機、97式艦上攻撃機、99式艦上爆撃機、零式艦上戦闘機、そして1式陸上攻撃機、やがて米英に対して使われる兵器の製作のために、鉄とアルミニウムはいくらあっても足りなかった。1939年(昭和14年)、大西洋から南米の中立港へと英艦隊に追い詰められたドイツの通商破壊用小型戦艦グラーフ・シュぺーが自沈した時、仁科は「あの鉄があれば、大サイクロトロンも完成するのに」。1938年(昭和13年)に国家総動員法が公布され、1940年(昭和15年)には戦時研究を束ねるための全日本科学技術国体連合会が結成された。委員長に長岡半太郎が就任し、日本の科学者達は戦争準備に組み込まれていった。結局、磁石は手に入ったものの、米側の対日禁輸措置はだんだんと厳しくなり、精密機器は入手不能になっていく。
技術的な問題が続出し東京での建設が難航する内に、ローレンス達の装置は1939年(昭和14年)に完成。同年、ローレンスはノーベル物理学賞を受賞した。ここで、仁科は思い切った手に出た。1940年(昭和15年)に3人の科学者をローレンスの元へ派遣したのである。
この時、米国ではすでに核エネルギー開発をめざした国家プロジェクトが走りはじめていて、ローレンスは、日本人には会えなかった。しかし、助手を通じて助言と論文を託し、これを元に東京でサイクロトロンの大改造が行われた。高周波電圧のかけかたを小型と同じ方式にした点に問題があったのである。
1943年(昭和18年)に完成した東京のサイクロトロンは、戦時下の建設を正当化するために、日本の原爆開発計画「ニ号」の一端を担う運命にあった。“ニ”はニシナのニ。これが、戦後の悲劇を生む。仁科とローレンスが戦後に初めて出会った時、二人の友情は変わっていなかったが、思いもかけない状況下にあった。後に朝永は、活躍する事のなかった戦艦「大和」と、悲劇的な結果に終わった東京の大サイクロトロンを比較する議論を、明確に否定している。
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