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生命情報科学の源流

第2回 1922年:日本とヨーロッパの距離

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文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長 鈴木 理   構成協力/佐保 圭

 日清、日露の戦いに勝ち、第一次大戦でも勝者の側に立った大正時代の日本。「一等国」を自負しながらも、その科学技術のレベルは一流とはいえなかった。しかし、独自性のある研究も育ちつつあったのである。そのカギは、来日の際にアインシュタインが経験したヨーロッパと日本との距離にある。

アインシュタインの来日

 関東大震災の前年の1922年(大正11年)11月17日、マルセイユから航海してきた北野丸が神戸埠頭に到着した。ランチに分乗した長岡半太郎(東京帝国大学教授)、石原純(元東北帝国大学助教授)らが北野丸に近づき、アルバート・アインシュタインと二番目の妻エルザにあいさつした。香港付近を航海中にアインシュタインのノーベル賞受賞のニュースが発表されていて、そのお祝いが交わされた。

 1905年(明治38年)、ベルンの特許局の一事務官にすぎなかったアインシュタインは、特殊相対性理論に関する二論文を発表。しかし、この「奇跡の年」にアインシュタインが発表した論文はこれだけではなかった。ノーベル賞受賞の直接の対象となった光量子仮説論文以外にも、ブラウン運動や溶液の粘性から分子の存在を証明する論文をたて続けに発表したのである。読者にはきわめて意外だろうが、エントロピーが増大する、つまり時間が流れる原因は、「分子」が存在するためなのである(囲み記事参照)。そして「分子」がなければ、現代の「分子」生物学もまた存在しない。

 雑誌『改造』の招きでアインシュタインが来日したのは、母国ドイツで友人のラテナウ外相が殺害され、自身も身の危険を感じていたためでもある。ラテナウが革命後のソ連邦と外交を結んだ事から、右翼は「ユダヤ人」と「共産主義」という2つの敵が同盟したとみなした。第一次大戦が始まった1914年(大正3年)にベルリン大学教授になったアインシュタインは、戦争中に一般相対性理論を完成していた。戦後の1919年(大正8年)、日食の際にイギリス隊が太陽の重力により背後の星からの光が曲がる事を観測。この現象を一般相対性理論から正確に予想していたアインシュタインは、一躍、国際的な有名人となった。しかし、第一次大戦中には反戦論に組みし、戦後はかつての敵国に祝福されるアインシュタインをよく思わないドイツ人も多かったのである。

 改造社の山本社長にとってはアインシュタイン招へいは一種の興行でもあった。実際、アインシュタインは仙台から福岡まで日本中を移動し、約束だった6回を越えて8回も有料の一般講演を行った。最後の福岡での講演の際には、さすがのアインシュタインも良い顔をしなかった。1921年(大正10年)に来日したバートランド・ラッセルに続いて、日本によぶべき有名人をさがしていた山本にアインシュタインを勧めたのは、意外にも京都帝国大学の哲学教授、西田幾多郎だった。親中国的なラッセルは、日本人や日本文化に対して必ずしも好意的ではなかったが、日本大衆が寄せる熱狂はアインシュタインを圧倒した。

↑仙台での講演後、松島への遊覧に際して、五大堂の四阿からアインシュタインは月を眺めた。来日前、訪日に不安を感じ、食べ物は?滞在場所は?と問う夫人をときふせてのアインシュタイン夫妻の来日だった。夜道を散歩中に「日本にもあの月はあるの?」とたずねたエルザに、アインシュタインは「バカを言いなさんな、日本にはもっといい月があるよ」と答えていたのである。写真は明治末期の松島海岸の様子。

↑来日を記念して組まれた『改造』アインシュタイン特集号の新聞広告。アインシュタイン自身の論文のタイトルわきには、以下の記述が。「全世界を革命せるアインスタイン氏が、評論雑誌への寄稿は全く世界の奇蹟だ、ガリレイ、ニウトンの建設せる力学の基礎法則が電磁現象に対して成立せず一般相対原理成立と共にユークリッド幾何学の沈没は理学界を全革命した、見よ現代文明の最高頂を示せる独創的、歴史的の此大論文を。」(河北新報 大正11年11月22日紙面より)

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