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生命情報科学の源流

第2回 1922年:日本とヨーロッパの距離

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星一とドイツ物理学

 SF作家、星新一の父、一(はじめ)は星製薬の創業者である。星一は1921~22年(大正10~11年)に二度にわたって多額の邦貨をドイツ学術振興会に寄付した。資金を分配する委員の中にはプランク、フリッツ・ハーバー、オットー・ハーン等、壮々たるメンバーがいた。リーゼ・マイトナー(核分裂の発見者の一人)もウェルナー・ハイゼンベルグ(量子力学の創設者の一人)も一時期、星の寄付から研究費を得たのである。ノーベル化学賞受賞者のハーバーは日本と浅からぬ因縁で結ばれていた。叔父ルドヴィッヒは、明治のはじめ函館のドイツ領事だったが、攘夷派の旧秋田藩士に殺害された。星の訪独に答えるべく、ハーバーは1924年(大正13年)に来日。ユダヤ系ながら熱烈な愛国者だったハーバーが、ナチスの支配するドイツで自殺するのは、いま少し後の話である。

 1925年(大正14年)には、ヨゼフ・シュンペーターを東京帝国大学に招へいする計画が持ち上がった。ウィーン生まれのシュンペーターはケインズとならび20世紀を代表する経済学者。第一次大戦直後の1919年(大正8年)にオーストリア大蔵大臣に就任。しかしシュンペーターでも当時の大インフレーションを鎮める事はできなかった。学界を離れたシュンペーター自身、借金をかかえて生活は楽ではなかった。結局、ボン大学教授となったため東京招へいは実現しなかったが、助けようとしてくれた日本とドイツに対する感謝を忘れなかった。1932年(昭和7年)に来日、東京帝大、東京商科大学(現一橋大学)、神戸商科大学(現神戸大学)を歴訪した。同年、ハーバード大学教授となった後も都留重人らを育て、第二次大戦中も親日的な発言を続けた。訪日時に見た日光や京都が破壊されると悩み、強迫観念に苦しんだという。

→アインシュタインが来日した1922年(大正11年)、星製薬の企業内学校として星製薬商業学校が設立された。薬に関する製造から販売まであらゆる知識を教えると共に、星一の願いでもある「世界に奉仕する人材の育成」「親切第一」を教育方針として掲げた。1950年(昭和25年)星薬科大学となり現在にいたる。同学本館前には、創立者である星一のブロンズの胸像がある。

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