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生命情報科学の源流

第8回 焼け跡の東京:デカルトとの対話

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オッペンハイマーとローレンスの戦後

 1946年(昭和21年)7月、アラモゴールド、広島、長崎に続く史上4発めの原爆実験(プルトニウム爆弾)が太平洋マーシャル群島のビキニ環礁で行われ、戦艦「長門」以下、戦争を生き延びた旧日本海軍の艦船を対象にその威力がためされた。ソ連を含む多くの国の政治家、外交官、ジャーナリストがこの“実験”を目撃した。戦時中、原爆開発の責任者を務めたオッペンハイマーも招待されたが、出席しなかった。彼は、ドイツを対象として開発された原子爆弾が日本に対して使われた事には抵抗しなかったが、ソ連を相手とする政治的な道具に使われる事には強い抵抗を感じていた。ボーア達は原子爆弾をソ連を含めた国際管理下に置く事を提案していたが、米政府に受け入れられるはずもなかった。

 もう一人、別な敗北を味わっていたのはアーネスト・ローレンス。原爆の開発のためにブッシュと彼を補佐するハーバード大学学長のコナントの下に4つの部局が置かれたが、ローレンスは、その一つ、ウラン235の電磁的分離の責任者をつとめた。ローレンスは、サイクロトロンを改造した質量分析器(磁場の中では質量が重い元素のほうが大きな半径を描いて曲がる事を使う)でU238からU235を分離しようとした。カルトロンという名のプロトタイプ(カリフォルニア大学の“カル”)をかつてのサイクロトロンを改造して作り、ついで、米産業を総動員してこれを大量生産しようとした。原爆開発計画の資金の大半はこの計画のために使われたとされる。しかし成功しなかったのである。成功したのは、ウーレイが責任者を務めた気体拡散方式の方だった。プルトニウム生産の責任者だったウィグナーが、1943年(昭和18年)にローレンスを訪れ「進み方が遅すぎる」とこぼした時、ローレンスは「君達は原子炉を使ってプルトニウムを、私達はU235を分離する。気体拡散方式は放棄されるべきだ」。しかし予想に反して、ローレンスだけが失敗したのだ。フェルミは、最初からローレンスの成功を信じなかったという。

 もともと、気体拡散法は、バークレーでオッペンハイマーから理論物理学を学んだフィリップ・エイベルソンがワシントンの海軍研究所で自発的に開発したものだった。原子爆弾開発計画の隠蔽のため、潜水艦用の動力として原子力を応用しようとしているといった説明がしばしばなされていて、エイベルソンもそういった原子力開発のためにU235を濃縮しようとしたらしい。気体拡散方式では、ウラン化合物を気化して拡散の速さで分離する。その利点は、プロセスを繰り返して徐々に純度をあげられる事だった。一方、ローレンス達の方式では必ず少量のU235が得られるものの、天文学的な回数の試行を必要とした。当初、ローレンス達は、気体拡散で得られた純度10%前後のU235をカルトロン2号機に射ち込んで、25%前後に純度をあげていたが、1945年(昭和20年)中ごろには気体拡散の純度は限界に近づき、カルトロンからは85%の純度が得られるようになった。そして7月になると、気体拡散法の純度はさらに上昇し、カルトロンによる処理を全く必要としなくなった。このU235が、広島に投下されたリトル・ボーイの原料となったのである。

1968年(昭和43年)にアメリカで出版されたローレンス(左)とオッペンハイマー(右)の伝記。二人の対照的な人生を描いている。裕福なユダヤ人家庭に生まれたオッペンハイマーはカリフォルニアで貧者の生活と共産主義を知り、一方、裕福ではなかったローレンスはサイクロトロン建設のスポンサーを探して金持ちたちとつきあうようになる。最大の皮肉は、若い頃からアメリカの理論物理学をリードするホープと期待されていたオッペンハイマーではなく、物理学を全く理解しないと思われていたローレンスがノーベル賞を受賞した事。

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