生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第8回 焼け跡の東京:デカルトとの対話

書籍関連・映画のご紹介

ペニシリン立体構造の解明

 小平が紅茶にいれたレモンに生えていたのも、たぶん、アオカビだっただろう。ペニシリンは、1928年(昭和3年)の「シャーレに落ちた胞子から成長したアオカビが、シャーレで培養中のブドウ球菌の増殖を阻害した」というフレミングの報告をもとに、戦時中の英国でアーネスト・チェインが分離し、米企業が大量に生産した。大量生産の決定には、原爆の開発を決めたバネバー・ブッシュが一役買っている。ペニシリンを多く生産するアオカビを求めて米空軍は世界中の土壌を研究室へと運んだが、採用されたのは、新聞の呼びかけに応じて主婦が届けたメロンにはえていたカビにX線を照射して得られた株だった。

 化学構造も不明なまま、カビを培養しての生産は、薬品としてはきわめて異例だった。戦争遂行のために化学合成をめざして、英国はぺニシリンの立体構造(分子の形)から化学構造を決定しようとした。それ以前には、化学構造が決定された後に、これを参考にして分子の形を議論した例しかなく、戦争が無ければこんな無謀な計画はスタートしなかっただろう。担当したのはオックスフォード大学のドロシー・ホジキン(旧姓クロウフット、1945年当時、35歳前後)。ホジキンは1932-1934年にケンブリッジでバナールから結晶学を学び、蛋白質の結晶から回折を記録するためには、結晶を乾燥させてはならず、水の存在が重要である事を示した。この事実はDNA立体構造解析の時にも重要となる。

 結局、立体構造が議論できそうな2種類のペニシリン結晶が得られた。その一つを選んだホジキンは、カリウムもしくはルビジウムを含む結晶を作って、“同型置換法” (カリウムやルビジウムがもたらす回折強度の差を使って位相を決める)を駆使して立体構造に迫った。一方、英ICI社のバンは別の結晶を選び、分子構造をまず考え、その光回折像を実験的に得てX線回折写真と比較して、構造を推定しようとした。“ハエの目法”とブラッグ(子)が呼んだ方法である。バンもホジキンも単独では解答にたどりつかなかったが、両者の解析結果に共通点がみつかり、これをもとに立体構造が決定された。ただし、時すでに1949年(昭和24年)、戦争は終わっていた。この時、ホジキンは英国で初めて作られたコンピュータ会社のパンチカード式計算サービスを利用して大量の計算を処理した。これは、生命科学におけるコンピュータ時代の幕開けを予感させる展開だった。ホジキンが習熟した同型置換法は、後にペルーツ達がタンパク質立体構造の決定のために使う事になる。

X線結晶解析による生体物質の分子構造の決定により、1964年(昭和39年)、ノーベル化学賞を受賞したドロシー・ホジキン。写真は、ノーベル賞受賞当時に撮影された1枚。ホジキンの受賞の理由は、ビタミンB12とペニシリンの立体構造の決定だった。ホジキンが見せているのは、ペニシリンの立体構造である。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ