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生命情報科学の源流

第8回 焼け跡の東京:デカルトとの対話

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“一遺伝子一酵素”説

 1946年(昭和21年)に米国コールド・スプリング・ハーバーでシンポジウムが開かれ、一般の研究者たちも大腸菌やファージに遺伝子とその組み換えがある事を知った。“組み換え”があるという事実から遺伝子の存在が示されたといってもよい。この会でジョージ・ビードルとエドワード・テータムの“一遺伝子一酵素”説が、ほとんどの研究者に受け入れられた。もともと“遺伝子”とは、親から子どもに継承される“形質”、つまり、目の色や血液型のような “因子”を意味し、形質が実際にどうやって決まるのか見当もつかなかった。ビードルとテータムはアカパンカビを使って、栄養要求性の変異株(特定の栄養素が無ければ生育できない株)を多数分離し、これらの変異では栄養素を分解する酵素が機能していない事を明らかにした。「目の色が変わるのは、目の色を決める酵素が変わるから」というのは、少々、単純化しすぎた図式だったが、遺伝子が記録するものがタンパク質の配列である点では全く正解だった。

 シンポジウムでデルブリュックだけは意見を保留、その理由は、この説が「反証可能か否か」というカール・ポパーの科学の基準を満たすか否か定かでないという哲学的観点からだった。かつてウイーン学団の周縁にいたポパーは、戦争中、ニュージーランドへ亡命し、当地で『自由主義とその論敵達』を著わしていた。後に渡辺格もポパーに傾倒するようになる。

 ビードルとテータムが最初に“一遺伝子一酵素”説を発表したのは、日米が開戦した1941年(昭和16年)。この年、日本からも吉川秀男が同趣旨の論文を米国の雑誌に投稿していた。当時、絹糸は日本の最大の輸出品、なおかつパラシュート等に使われる戦略物資でもあった。蚕糸試験所に勤務していた吉川はカイコの変異株を使ってビードルやテータムと同様の結論に達していたのである。開戦のため吉川は自分の論文の運命を知らなかったが、無事、印刷されて、米国の研究者達に読まれていた。

1941年(昭和16年)当時、吉川が勤務していた東京・杉並の蚕糸試験所の全景。1912年(明治45年)に農商務省原蚕種製造所として建てられたこの施設は、1937年(昭和12年)に農林水産省蚕糸試験場と改称。1980年(昭和55年)筑波に移転し、現在、試験場跡地は蚕糸の森公園となっている。正門を入ると、「蚕糸科学技術発祥の地」と刻まれた記念碑を見ることができる。

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