では当時の日本人の自然観や物質観の基礎にある思想はなんだったのか。それはひとくちでいえば東洋的な「気の思想」だった。
東洋思想における気とは、宇宙に広がる不可視の流動体であり、万物の根源である。この気は陰陽に別れており、凝固すれば五行説が説くような物質(木・火・土・金・水)になる。拡散すればふたたび流動体にもどる。気は物質に作用し、運動の原動力ともなる。つまり、すべての自然界の現象は気の働きによるというのが、その骨子だった。
忠雄はこの気の思想によって、ニュートンの物質観や自然観を理解しようとした。彼にとっては、分子の間に働く力も、重力も、大気圧も、原因は万物の根源である気だった。こうして西洋思想に東洋思想を付き合わせることで、自然を統一的に解釈しようとしたのである。
とはいえ、流動的で連続的な気の概念には、不連続な固体である粒子の概念は含まれていないため、対応する用語もまた存在しなかった。
この難路を忠雄はどう切り拓いていったのか。
彼はまず対応する言葉を古典や古文に求めた。忠雄の日本の古典に対する造詣は、当時の国学の最高権威である本居宣長に対して堂々と異説を立てられるほどのものだった。
ときには中国の文献や仏教用語なども参照しながら、彼は自分が理解した概念にふさわしい用語をつくっていった。この翻訳で忠雄が発明した用語には、求力(引力)、万有求力(万有引力)、属子(分子)、真空、重力などがある。このうち重力は伝統的語彙にもないまったくの造語だった。
それでもうまくいかない場合には、発音をカナで表記し、原語(本語)を並記した。
この周到な作業と卓越した語学力によって、困難な翻訳はついに完成をみた。その水準は、翻訳においても、ニュートン理解においても、後世の科学史家を驚嘆させるほどのものだった。
写真/早稲田大学図書館
それはまた中山茂氏がいうように、東洋最初のニュートン主義者が誕生した瞬間でもあった。 |