科学以外の忠雄の訳業に目を向けてみると、一番有名なのはエンゲルベルト・ケンペルの『鎖国論』の翻訳だろう。
ケンペルはドイツの博物学者・医師で、元禄時代に来日し、二年間にわたって日本研究に取り組んだ。帰国後、その体験をもとに日本について紹介する「廻国奇観」を刊行した。その死後に遺稿を集めて刊行されたのが「日本誌」で、当時のヨーロッパで広く愛読された。『鎖国論』はその巻末付録として、当時の日本がとっていた外交政策について論じた一文である。
江戸幕府の鎖国政策は明治以降、否定的な評価を受けてきたが、『鎖国論』におけるケンペルの論はそれとは正反対である。
彼は日本内外の状況を考えると、幕府の方針は間違っていないとする。外国との交易には戦争や侵略などの大きな危険がともなう。日本には自立した経済とすぐれた文化があるのだから、あえてそのような危険を冒す必要はないというのである。
ケンペルの書には鎖国という概念はあっても、言葉自体はない。その言葉は忠雄の発明品だった。もう一つ『鎖国論』では「植民」という言葉も彼の発明である。
忠雄はコーヒーという言葉の紹介者ともなった。世界の地理、風俗などを博物学的に紹介した『万国管窺』には、コーヒー豆が豆科の植物ではなく、木の実であることが正確に記されている。
柳圃は生涯長崎を一歩も出ず、家にこもり、名利や栄達を求めず、文字どおり書に埋もれて蘭学の研究に没頭した。他の学者とほとんど交流をもたなかったため、その名が知られるのは遅かったが、やがて長崎に志筑ありの声は江戸や京にも鳴り響くようになった。そして大槻玄沢、玄幹父子はじめ、多くの学者が訪れるようになった。
その中から、シーボルトと親交があった吉雄権之助、語学の達人で、後に幕府天文台で活躍する馬場佐十郎らのすぐれた弟子もできた。
市井の学者として貫き通した忠雄は、文化三年(1806年)、四七歳でこの世を去った。その精励ぶりを証すように、生涯の著作は約40種に及んだ。その死後、弟子たちによって忠雄の学問は補充され、全国に広まっていった。
彼らの外国語研究のおかげで西欧の文化・情報の吸収は速まり、日本の近代化に大きく貢献した。しかし忠雄以降、江戸期には西洋の科学思想に本格的に取り組む者はあらわれなかった。
明治以降も殖産振興や富国強兵を急ぐあまり、成果の吸収がもっぱらで、その土台にまで思いをはせる者はごくわずかだった。こうした事情は現在でもあまり変わっていないかもしれない。
それをいえば、西洋思想の翻訳を通した異文化理解という彼のテーマも現在まで引き継がれている。その意味でわたしたちは、何度でも忠雄に帰る必要があるのではないだろうか。
「予ハ一箇の舌人ナルノミナレバ、僅二蘭書ノ大意ヲ解スルコトヲ得レドモ、浅見薄聞、和漢ノ典籍ニ暗ケレバ、如何ゾ、天文ノ何物タルコトヲ知ルニ足ランヤ」(忠雄)
※最近の研究で、志筑忠雄の著書に記された三角法から、彼が数学における「ネイピアの法則」の最初の紹介者であることが実証された。 |