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シュレーディンガーの『生命とは何か』

 ヴィトゲンシュタインやペルーツらと同様、シュレーディンガーの父親はオーストリアの産業家だったが、母方からイギリス人の血も流れていた。まだまだ田舎だったダブリンに亡命し、名士として安全に暮らした。その返礼として戦争中に市長や市民に向けて行った公開講演が『生命とは何か』という著作になった。

 この中でシュレーディンガーは、マックス・デルブリュック(分子生物学の父、1969年ノーベル賞受賞、ワトソンの師)がレソフスキー達と戦前に書いた論文を発掘し、これを世に広めた。デルブリュックは、ショウジョウバエの突然変異率を核物理学の散乱断面積の考え方で議論し、「遺伝子は高分子である」と結論。この当時、物理学者だったデルブリュックはベルリンのオットー・ハーンの研究所でリーゼ・マイトナーの助手を務めながら生物学に転向しようとしていた。2人が核分裂を発見する寸前に、ショウジョウバエ研究のメッカ、カリフォルニア工大へ渡った。ハーンらの核分裂実験こそは原子爆弾開発の出発点となる。

 もともとシュレーディンガーの本は一般受けする程度のレベルでしか書かれていなかったし、自ら真剣に生命を研究するつもりもなかった。厳格な宗教国だったアイルランドで10代の少女に関心を持ち続けたのだから、壮絶な私生活で手いっぱいだった事であろう。しかし、第二次大戦から戦後にかけての状況が彼の本を渇望していたのである。

 シュレーディンガーの本は、ある科学者達にはむかうべき未開拓の新天地を指し示していた。海軍で機雷を研究していた物理学者のクリックには生物学を、鳥類学を学んでいた生物学者のワトソンには物理学を。ウィルキンスのように兵器開発にかかわった科学者には、“死の科学”とは異なる“生き方”を教えてくれそうに思えた。ドゴールの軍隊に参加してノルマンディーで全身に爆弾の破片をうけた医師ジャコブには、“できなくなった手術のかわりにやれる事”を教えてくれそうに見えた。こうして、本来、そこにいるはずのない人材が正統的ではないやり方で生命と情報に対峙する事になった。

 戦時中に連合国側で出版されたシュレーディンガーの本が我が国に初めて入ってきたのは、やっと1951年、朝永や小平邦彦(日本人初のフィールズ賞受賞者)、久保亮五(統計力学の「久保の法則」の発見者)と同時期に米国へ留学していた湯川を介してである。二重らせん構造の発見が目前に迫っていた。

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