その一報を聞いた杉田玄白の悲哀は深かった。若い頃から親しく交わり、『解体新書』の刊行にも協力してくれたあの才人平賀源内が獄中死したというのである。
その一月ほど前、彼は人をあやめたとして自首していた。それも玄白にとっては晴天の霹靂だった。晩年の源内は奇行があり、癇癪を起こすことも多かったというが、まさか人殺しまでとは思いもよらなかった。
その上、獄中死で人生を終えるとは。いかに自由を愛し、風狂人を自認した男でも、あまりに惨めな最期ではないか。
源内の亡骸は妹婿に引き渡され、葬儀が友人、門人の手で行われた。その後、浅草の総泉寺に玄白の尽力で墓碑が建てられ、友人の突然の死を惜しむ玄白の心情が「嗟 非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」と刻まれた。
平賀源内肖像 (財)平賀源内先生顕彰会所蔵
非常の人、これこそ源内をあらわすにぴったりの呼称だった。博物学者であり、鉱山技師であり、電気工学者、化学者、起業家、イベントプランナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家、ベストセラー小説「風流志道軒」や人気戯作「神霊矢口渡」の作家であり、日本最初のコピーライターでもあった。いずれの分野でも先駆的な業績を残し、最後は殺人者として獄中自殺する。
凡人には目がくらむような華々しく、非常な人生である。しかしてその非常さゆえに、彼の評価は生前から揺れ動き、今も定まっていない。
ある者は、山師といい、ある者は余りの多才ゆえにまとまった業績を残せなかったと才能の浪費を惜しみ、ある者は早すぎた近代人と呼び、また、偉大な万能人としてレオナルド・ダ・ヴィンチと、大発明家としてエジソンと並び称す。この評価の多様さがそのまま源内という人物の多才さと結びつく。しかし、変幻自在、八面六臂のその人生を全体に捕捉しようとすると、かえって目を欺かれる。
ここでは、連載の趣旨に沿って、彼の科学的業績に焦点を合わせながらその人となりを見ていくことにしよう。
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