源内の業績はこれまで紹介してきたほかにも数多い。
そのひとつに陶器製作の指導がある。西洋の輸入陶器よりすぐれた陶器をつくって輸出しようと考えた源内は、天草や郷里の志度を拠点に陶器産業を興そうとした。このうち志度では、斬新なデザインをほどこしたいわゆる「源内焼」を指導し、その作品が今に伝わっている。しかしいずれも資金協力がえられず、目論見どおりにはいかなかった。
源内焼 (財)平賀源内先生顕彰会所蔵
毛織物の羅紗の製造も手がけ、志度で緬羊の飼育から始めて、最初の国産毛織物の製造に成功した。しかし事業化にまではいたらなかった。
また、歩いた距離を測る量程器やタルモメイトル(寒暖計)などの測定器具も製作した。
源内によるタルモメイトルの解説書とその複製品
(財)平賀源内先生顕彰会所蔵
科学技術以外では、風来山人の筆名で、『風流志道軒傳』『根南志具佐』などの戯作を世に問い、大評判になった。浄瑠璃も作り、その代表作『神霊矢口渡』は今も上演されている。
源内の著作 (財)平賀源内先生顕彰会所蔵
日本最初のコピーライターとして、土用の丑の日にウナギを食べさせるキャッチコピーを考えたり。CMソングも作詞作曲したりと、その才能とパワーはまさにとどまるところを知らない。日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとの評価もむべなるかなである。
人間源内は、自信家で、鼻っ柱が強く、大風呂敷を広げることも多かったが、その才気と構想力で多くの人間を魅了した。若い頃から支援者も多く、江戸で知り合った蘭学者の仲間内でも、つねに一目置かれる存在だった。前出の杉田玄白をはじめ、前野良沢、森島忠良、桂川甫周らとも協力関係を結んだ。
私生活では生涯妻をとならなかった。この理由ははっきりしないが、男色家だったからだという説もある。
しかしエレキテルの製作を手伝っていた者を偽造で訴えだしたあたりから、時代の寵児もどうも世の中とかみ合わなくなってきた。手がけた事業は数知れず、アイデアもよかったが、結果から見れば成功と呼べるものは少なかった。
それを見て、一時はあれほどもてはやしていた世間も、山師とそしる始末。さすがの源内も己の才能に対する満々たる自信と現実の落差に苛立つことが増えていった。それに仕官がきかぬ身で、金銭的な苦労も多かった。
彼の人生の不幸な結末も、そんな鬱積が引き金になったのだろうか。
常に新奇なものを求めて、日本全国をかけずり回った源内という男を、神は畳の上で死なせてはくれなかった。
安永8年(1777年)、源内は人を斬り殺したとして奉行所に自首した。江戸を騒がせたこの大事件の詳細については、斬った相手も、動機にも不明な点が多い。
ある資料によれば、斬った相手は大工で、源内宅で開かれた酒宴のあと、源内が大工に盗みの嫌疑をかけ、その諍いから刀を抜いたという。今のところこれが有力視されているが、異なる資料もあり、それ以上くわしいことはわかっていない。
その一月後の獄中死の死因についても、破傷風により病死したとされているが、絶食して餓死したとかの説もあって定まっていない。
いずれにしても、鬼面人を驚かす非常の人は、最後まで世間を驚かせ続けて世を去ったのだった。
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