源内は、生前、そのあまりに破天荒な生き方から山師(ペテン師)とそしられることも多かった。鉱山技師に由来するその蔑称は実際に、鉱山技師だった源内にはぴったりのあだ名だったかもしれない。だが、山師といっても、源内の場合は小遣い稼ぎのちゃちな山師ではなく、幕府や資産家を巻き込んだ山師も山師、大山師だった。
源内が山師になるきっかけは、宝暦14年(1764年)、秩父中津川の山中で、偶然にも石綿(アスベスト)を発見したことにあった。
石綿は天然の繊維性鉱石のことで、その繊維は髪の毛の5千分の1ほどときわめて細い。熱や薬品にも強く、それを織った布は、古代中国で火で浣(洗)う布、火浣布と名付けられて珍重された。
源内の発見は偶然とはいえ、彼にそれを見抜く鉱物知識があればこそだった。
この石綿発見後、源内は火浣布の製作に取り組み、小さな香敷きを試し織りした。源内はこれを江戸で幕府に献上し、オランダ人や中国人に見せて得意になったという。しかし技術的困難さもあって、それ以上に発展することはなかった。
源内製火浣布 (財)平賀源内先生顕彰会所蔵
このように、新しいものを発見すると、すぐさま応用を考え、産業に結びつけようとするのが源内の真骨頂だった。これを機に源内は廃坑になっていた金山の再開発事業を企てた。石綿発見から2年後の明和3年(1766年)、幕府の許可をえていよいよ事業に着手した。しかし多くの人手を動員した大事業も、肝心の採掘量が少なく、3年後には休業に追い込まれてしまった。
二度目の長崎留学後、ふたたび中津川で今度は鉄山の開発事業に乗り出したが、これも精錬がうまくいかず、まもなく撤退を余儀なくされた。皮肉なことに、この失敗により源内は名実ともに大山師になったのである。
その後、安永2年(1773年)には秋田藩の要請により鉱山開発の指導を行った。この折り、秋田藩士小野田直武と藩主・佐竹曙山に西洋画の技法を伝えた。
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