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平賀源内 科学技術社会を先取りした江戸の自由人

志度の天狗小僧

 平賀源内が生まれたのは、江戸中期の享保13年(1728年)である。「暴れん坊将軍」八代徳川吉宗の治世だった。

 生地は讃岐国寒川郡志度浦、現在の香川県さぬき市志度である。父の白石茂左衛門は高松藩士だったが、身分の低い足軽だった。

 幼い頃から利発だった源内はさまざまなカラクリを工夫して、家人や村の者たちを驚かせたという。なかでも、御神酒を供えると天狗の顔が赤く変わる「御神酒天神」の掛け軸は大人たちを驚嘆させた。いつしか彼は「天狗小僧」と呼ばれるようになった。


御神酒天神 (財)平賀源内先生顕彰会所蔵

 13歳になると、藩医の元で本草学、藩内の儒者のもとで儒学を学んだ。

 もともと中国で発達した本草学は、薬になる植物や鉱物を研究する薬物学だった。これが日本にはいって、生物や鉱物の収集、分類を含めた学問となり、このころには全国各地で学ぶ者が多かった。珍しい事物にふれる機会の多いその学問は、好奇心旺盛な源内にはうってつけだった。

 寛延2年(1749年)、源内が21歳のとき、父の死により家督を継いで御蔵番として出仕した。同時に姓を先祖の姓である平賀に改めた。

 家督を継いでから3年後、源内の将来にとって決定的な出来事が起こる。藩に長崎遊学の願いを出し、これが認められたのである。まだ長崎遊学など珍しかった時代だが、若き源内の旺盛な好奇心と行動力はじかに「西洋」とぶつからずにはすまなかったのだろう。

 源内にとって幸運だったのは、藩主松平頼恭が本草学に関心をもっていたことである。彼が破格の長崎遊学を認められた裏には、この主君の内命もあったのではないかと推測されている。

 この遊学期間中、源内がなにを学んだかという資料は伝わっていない。しかし約一年の間に、持ち前の旺盛な好奇心で、西洋の知識をどん欲に吸収したことは間違いないだろう。それによって西洋に対する想像力を育み、ひるがえって日本の学問や産業のあり方も考えるようになった。これは遊学後の彼の行動からも証明される。

 遊学から2年後、源内は江戸に出る望みを抱いて藩に退役願いを出した。幸いこの願いは聞き届けられた。浪人の身分になった源内は妹の里与に婿養子をとらせて、平賀家を継がせた。源内27歳のことである。


関連用語

松平頼恭(まつだいら よりたか)
1711-1739
江戸時代の大名。讃岐高松藩第5代藩主。
砂糖産業、塩田開発などを奨励し、逼迫した藩財政の立て直しに尽力した。本草学にも関心が深く源内の才能を認めて、重く取り立て、薬草の栽培を行わせた。また参勤交代の途中生物調査を命じたりした。源内辞職に当たって「仕官御構」という条件をつけたのは、その才能を高く買って反動だといわれている。

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