源内が生まれたのは将軍徳川吉宗の時代、活躍したのは老中田沼意次の時代だった。吉宗は本草学を奨励し、厳しい鎖国の禁をゆるめて、蘭書翻訳を許した。また意次は新田開発や産業を奨励し、輸入品の国産化を促した。
こうした時代が、封建時代、鎖国時代の江戸において、源内という才能の活躍を後押ししたことは間違いない。源内の鉱山開発や陶器産業、織物産業の指導などはそのまま意次の政策の具体化とも見られる。
あるいは源内こそ、田沼政治のもっともよき具現者だったかもしれない。実際、二人の間には交流があったという説もある。小身の旗本から大名に成り上がった異能の政治家と、江戸を震撼させた異才、ふたつの才能はこの時代、はからずも同じ方向を向いていたことになる。
源内のアイデアや発想は時代に先駆けるものだった。ただし大方は西洋の受け売りで、独自性という点では物足りぬところもある。むしろ源内の真価は、藩にとらわれない自由人の立場からの発想と、そのアイデアや発明を産業振興と結びつけようとした点にあるだろう。それによって彼は科学・技術・産業が結合した19世紀の産業社会を先取りしたのである。
平賀源内像 (財)平賀源内先生顕彰会所蔵
この点に限れば日本のエジソンどころか、エジソンより先行していた。
ただし、エジソンは成功して産業界の寵児になったが、源内は失敗した。これは源内の性格もあったが、やはり時代と環境の違いが大きかっただろう。日本のみならず18世紀という時代は、技術文明の花が開くほどには成熟していなかったのである。
日本で、西洋の産業社会を手本に、殖産振興が奨励されるのはそれから百年後、時代が明治に代わってからである。江戸中期に、科学・技術と国益と産業振興を結びつけようとした「日本のエジソン」平賀源内は、その意味で早すぎた近代人であり、明治人であったのかもしれない。
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