情熱の勝利
1953年(昭和28年)2月末、ワトソンとクリックはDNA立体構造の中核である、“塩基対”という概念にたどりついた。DNAの片方の鎖のA塩基にはもう一つの鎖のT塩基が、T塩基にはA塩基が、G塩基にはC塩基が、C塩基にはG塩基が結合、こうして二つの鎖は、ネガとポジの関係で結びつく。片方の鎖の塩基の並び(配列)にしたがってもう一つの鎖が合成される機構こそは、親から子へと遺伝情報が複製される原理そのものだった。ただし、この合成は酵素たんぱく質が仲介する化学反応によって起こるのであって、DNAが“自分で”複製するわけではない。“塩基対”に気づいたワトソンとクリックは、模型づくりを中断して、研究所近くのパブ、イーグル亭へと走り、祝杯をあげた。昼食に集まった誰彼かまわずにクリックが「生命の神秘を解明した!」と言ったので、「不愉快になった」とワトソン。
塩基対の解明には、ウィーンからアメリカにわたったユダヤ人化学者、アーウィン・シャルガフの研究が重要だった。DNAが先に記したように構成されているなら、DNA二重鎖中のAとT、GとCの割合は常に同じになるはずである。“塩基対”を知らないまま、いろいろな生物のDNAの化学分析から、この関係をシャルガフは結論していた(シャルガフの比率)。シグナーのDNAをフランクリンからとりかえせなくなったウィルキンスは、1951年(昭和26年)後半、訪米してシャルガフからDNA試料を得た。このDNAはおそらく純度の高いものだったのだろうが、切断されていて、良い繊維試料に配向しなかった。
1284年に創設された、ケンブリッジ最古のカレッジ、ピーターハウス校のダイニング・ホール。1952年(昭和27年)初夏、ワトソンとクリックはケンドリューから、このハイ・テーブルでシャルガフに紹介された。ただし、シャルガフ自身は昼食時だったと回想していて、もしそうなら場所はこのハイテーブルではなかったはずである。 |
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1952年(昭和27年)夏、ケンブリッジを訪れたシャルガフをケンドリューに紹介されるまで、クリックは“シャルガフの比率”を知らなかった。一方、ワトソンはずっと以前から、この比率を知っていた。ボーアの講演『光と生命』を聴いていた、量子力学の建設者の一人、パスカル・ヨルダンは、1940年(昭和15年)、「量子力学的効果によって同種の要素が引き合う事により、遺伝子が複製するのではないか」と論じた。これに対してカリフォルニア工大のポーリングは「構造化学的には、むしろ、“相補的な要素”つまり“+とー”が互いに引き合う」と反論した。
ポーリングはデルブリュックにもちかけて、この論文を二人の共著とした。デルブリュックからワトソンは耳にタコができるぐらい相補性について聞かされていた。ただし、デルブリュックが生物学にもとめた“相補性”とポーリングが議論した“相補性”は同じものではなかったのだけれども。
DNAの立体構造を考えるため、ワトソンとクリックは、ロザリンド・フランクリンだけが持っていた回折データを必要とした。フランクリンのデータは2回にわたって不正に手渡された。一度めは、1953年(昭和28年)1月、ロンドンを訪れたワトソンにウィルキンスがフランクリンの撮影したB型(完全に水和した状態)DNAの回折写真を見せ、夕食をとりながら重要なパラメータを教えた時。ウィルキンス自身、このデータを持つ立場にはなかったが、かつての大学院生(今やフランクリンの学生)を介して写真のコピーを得ていた。もう一度は、フランクリンが提出した報告書を、研究費の審査委員だったペルーツが読み(ここまでは当然)、その内容をクリック達に教えた時(ここが問題)。クリックは、そこに書かれていた対称性が、DNAの2本鎖が並行かつ反対方向に走る事を意味する点を見逃さなかった。
1953年(昭和28年)3月7日、ワトソンとクリックはDNA二重らせんモデルを完成した。金属性の模型はヒトの背丈よりも大きく、クリックが予想したように逆並行に走る二本のDNA鎖の間には、ワトソンが発見した塩基対が収まっていた。完成後、「もうくたくたになって家に帰った」とクリック。
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オーストリア生まれのアーウィン・シャルガフは、DNA中、AとT、GとCの比率が常に同じであることに気づいていた。たいへんな教養人だったシャルガフは、ワトソンたちのアグレッシブな姿勢からも無縁だった。シャルガフは後にワトソンとクリックを「2人のピッチマン」と表現している。 |
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ワトソンとクリックは、AとT、GとCを図のように組み合わせると、2本のらせんの関係が同一に保たれ、すべての構造化学的問題が解決することに気付いた。このことが2人を二重らせんモデルの完成へと向かわせた。 |
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