デルブリュックの死
デルブリュックは、1976年(70歳前後)、カリフォルニア工大の卒業生達にむかって講演した。「私は中毒患者のようにささやかな研究にしがみついている。自分の仕組んだ実験に自然がどう答えてくれるか、それだけが知りたくて毎朝、研究室へと急ぐ。幸運と根気があれば、大発見ができるかもしれない。アメリカ大陸の発見にも匹敵するような」。デルブリュックが亡くなったのは5年後の1981年(昭和56年)。
ステントは言う。「デルブリュックの前では、いつも自分がたいへんなミスを犯すのではないかと緊張していた。それは死につつあるデルブリュックを前にしても同じだった。なんとかして、デルブリュックが高く評価してくれるような事を成し遂げたいとばかり願ってきた」。「デルブリュックは賞や栄誉には超然としていた。少なくともそういうふりをしていた。彼にとり1969年(昭和44年)のノーベル賞の受賞は、ジレンマだったに違いない。科学者としての最高の栄誉を得ることは喜びだっただろうが、同時に、権力を持たない分子生物学の“ガンジー”としての精神性が受賞によって傷つくとも感じていただろう。結局、受けたのは、一つには、他の人達が彼のことを高く評価しなかった時に研究員にしてくれたボーアの汚名を晴らせると考えたからであり、もう一つには、以前にサルトルが受賞を拒否して大騒ぎしたことへの反感からだった。だから、デルブリュックと同じ年に文学賞を受賞したサミュエル・バケットの態度は驚きだったに違いない。バケットは委員会の通知その他をいっさい無視したのだ」。「ワトソン達がDNAの立体構造にたどり着いた後、デルブリュックが不満そうに言ったことがある。“いつもワトソンを息子のようにかわいがってやったのに、あの恩知らずめは、有名になったら、今度は私を父親のように扱う”」。
1969年(昭和44年)、ノーベル生理学・医学賞を受賞した“分子生物学のガンジー”は、その賞金をすべて慈善団体に寄付した。写真は1981年(昭和56年)、すでにガンに冒されていた最晩年のデルブリュック。 |
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