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生命情報科学の源流

最終回 1953年ゴールデン・ゲート・ブリッジに舞い降りた二重らせん

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EDSACコンピュータ

 ワトソン達がDNAの立体構造にたどりついた1953年(昭和28年)、キャベンディッシュ研究所ではジョン・ケンドリューがEDSAC(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)1号機を使ってタンパク質立体構造を計算するための準備に取り組んでいた。ホジキンがペニシリンに適用した同型置換法を発展させる事により、タンパク質の立体構造の決定が可能な事をペルーツはこの頃、示していた。それでも莫大な量の計算を必要としたのである。EDSACコンピュータの導入には、キャベンディッシュ研究所のハートリーの貢献が大きかった。1931年(昭和6年)にMITのブッシュが微分解析機械を製作すると、関心を持ったハートリーは玩具メカーノの部品を使って試作機を製作、さらに2号機を使って量子力学計算を行った。戦争中、ブレッチュリー・パーク(戦時中イギリスが枢軸側の暗号を解くために設営した秘密基地)で暗号解読に従事していたモーリス・ウィルクスを呼んでEDSAC開発の責任者としたのも、ハートリー。

 ハートリーは、1945年(昭和20年)のフォン・ノイマンのレポート『EDVAC(Electronic DiscreteVariable Automatic Computer)に関する報告書』をいち早くイギリスの研究者達に広め、1950年(昭和25年)のEDVAC完成に先んじて、1949年(昭和24年)、EDSACがケンブリッジ大学数学研究所に完成した。

 1951年(昭和26年)にTAC(東大Automatic Computer)プロジェクトがスタートした時にお手本とされたのもEDSAC。ウィルクス達の教本『電子デジタルコンピュータのためのプログラムの準備』とフォン・ノイマンの『電子計算機の問題設定とコード化』(1947年‐1948年)を教材として、日本の先駆者達はプログラミングを学んだのである。戦争中、手回し式計算機を使って、潮の満ち干を計算した竹内均は1953年(昭和28年)、渡英して、EDSACに対面した。

ダグラス・ハートリーがマンチェスター大学で製作したメカーノ製微分解析機の現存する一部。英国リバプール生まれのメカーノは、本来子ども用の玩具で、当時の金属製からプラスチック製に変わった現在も世界中で販売されている。

 1954年(昭和29年)、ロスアラモスの軍事研究用コンピュータ、MANIAC(プリンストンのIASに類似)を使って、ガモフがDNA塩基配列とタンパク質アミノ酸配列の対応をさぐった。EDSAC2号機を使って、人類が初のタンパク質立体構造の“粘土模型”を目にしたのは、1957年(昭和32年)、キャベンディッシュ研究所の地下、かつてサイクロトロンが置かれていた場所だった。そして1959年(昭和34年)、ついに金属部品でできたより精密なタンパク質模型が完成した。

ケンブリッジ大学につくられたEDSACの1号機。その前に立つのは、開発者のモーリス・ウィルクス(左)とウィリアム・レンウィック(右)。

ミオグロビン2Å構造の分子模型。1Å=5cmのスケールで作られている。右手前の“球と棒”型モデルは、BBCでのケンドリューの講演を応援するために、ブラッグらが王立研究所で製作した、より小型の模型。英国科学博物館所蔵。写真は『分子生物学の誕生(上)』秀潤社刊より。

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