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生命情報科学の源流

最終回 1953年ゴールデン・ゲート・ブリッジに舞い降りた二重らせん

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ブラッグ対ポーリング

 戦前のヨーロッパの黄金時代から、徐々にアメリカへと科学の優位は移り、第二次世界大戦はこの変化を決定的なものとした。“ウイルス1950”の席上、イギリスのボウデンがケンブリッジ訛りのクイーンズ・イングリッシュで「スタンレーはタバコ・モザイク・ウイルス(TMV)の結晶がタンパク質だけから構成されると結論したが、実際には核酸をも含んでいる」と攻撃するのをステントは目撃している。オハイオ生まれの田舎者のスタンレーだけがノーベル賞を受賞して、「TMVは“生きている分子”だ」といった派手な発言をくりかえすのを、ボウデンは苦々しく思っていたのだ。

 もっと激しいライバル意識が、ブラッグ(子)とポーリングの間にめざめていて、これが、ワトソン達の“暴走”を結局はブラッグが黙認し、ペルーツ達が助けた背景である。1951年(昭和26年)にポーリングがDNAの誤った立体構造を発表したことから、“狼がくる”(ポーリングが正解にたどりついて、イギリスをまたも出し抜く)と、ワトソンはブラッグたちの競争意識に訴えたのだ。

 1927年(昭和2年)にポーリングが渡英した時、ケイ酸塩(鉱石)のX線回折に関するブラッグ(子)の研究をブラッグ(父)から聞いた。ポーリングは、1928年(昭和3年)に自らの実験結果を含めてブラッグ(子)の研究結果をも説明できる“ポーリングの法則”を発表した。しかし、バナールとアストベリーの紳士協定にみられるように、当時のイギリスでは、他人が始めた研究に後からわりこんで競争することは倫理的でないと考えられていたのである。

 1948年(昭和23年)、オックスフォード滞在中のポーリングはタンパク質中に存在するαらせん構造を考え出した。その数週間後に訪れたケンブリッジでペルーツが見せたタンパク質結晶の回折写真にこの構造の特徴である5.4Åの反射が写っているのをポーリングは見逃がさなかった。しかし、ペルーツ達には何も教えないまま帰国し、研究を重ねて1950年(昭和25年)この構造を発表した。ペルーツ達にとって悲劇的だったのは、その直前に彼らもまた同様の方向をめざして論文を発表していたが、こちらの構造は致命的な間違いを含んでいた事である。ペプチド間の結合が平面でなければならない事をペルーツ達は理解していなかったのだ。焼け跡の東大で水島三一郎が考えたのも、似たようなタンパク質の規則的な立体構造だった。

 戦前、X線回折はイギリスだけのお家芸ではなかった。1913年(大正2年)、ブラッグ親子がX線回折を“面からの反射”という考え方に基づき説明した時、ほぼ同時に寺田寅彦も同様の結論に達した。彼の後輩の西川正治は、石綿などの非結晶物質からのX線回折を報告。アメリカにX線回折研究を伝えたのはこの西川で、ポーリングも西川に始まる米国のX線解析学の系譜に位置づけられる。敗戦後の東大・理工研では、野田春彦が文献を片手にタンパク質の繊維試料のX線回折実験を始めていた。ガリオア留学制度に合格した野田は、1950年(昭和25年)、戦後初代の首相となった吉田茂の次男らとともに、DC-6機に乗って空路、太平洋をわたった。べセスダのNIH(国立衛生研究所)にいる、西川の弟子のワイコフと電子顕微鏡を使ってファージの構造を研究するためだった。

実験器具とともに写るローレンス・ブラッグ(子)。

ライナス・ポーリングとαヘリックスの模型。

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