“生命”の壁
ステントは1949年(昭和24年)ごろを回想する。「今までやってきたファージの研究を総合して、まもなく自己複製(遺伝子)の問題は解決するだろう」とデルブリュックは言った。驚いたステントが「じゃあ、物理学の“もうひとつの法則”はどうなるんです?」と聞くと、「もっとたいへんな問題が残っているよ。精神だよ。原子の集まりである物質からどうやって精神が生ずるのかね?」。それは、焼け跡の東京の夏空に渡辺格が見たデカルトの姿でもあった。デルブリュックが“感覚”の研究のためにヒゲカビの研究へと移ったように、渡辺格も脳の研究をたちあげようとした。慶応大学を退職したとき、渡辺が黒板に残した絵、それは、遠方にそびえる山の左右に流れる川、そこに渡された一本の橋だった。この橋こそは、おそらく、あの世とこの世、精神と物質、知と物を結ぶ架け橋だったのだろう。
しかし、「自己複製の問題」つまりはDNAを中心に置く生命像は未だに完成してはいない。野田晴彦は言う。「戦後の焼け跡の頃と比べると、宇宙とその物質的基礎に関する理解は飛躍的に増加した。一方、“生命とは何か”という理解はほとんど進んでいない。1953年ごろ、タンパク質の立体構造が決まって、遺伝子配列が全部わかれば、生命の基本メカニズムはわかると思っていた。2つとも分かった今になって、“それじゃあダメだ”と言われている」。
2000年(平成12年)6月26日、ホワイトハウスのイーストルームに入るクリントン大統領にNIHのコリンズとセレーラ・ジェノミクス社のクレイグ・ベンターが従った。この日、コリンズ達ヒト・ゲノム機構のドラフト配列(ヒト・ゲノムのだいたいの配列)とセレーラ社の“初版”配列が、両者の激しい競争の中で決まった事が記者会見で発表された。ペルーツたちの方法を使って決定されたタンパク質の立体構造は、今や万に達している。それでも、やはり、生命は分からない。
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↑2000年(平成12年)6月26日、クリントン大統領はクレイグ・ベンター(左)とコリンズ(右)を従えて、ヒトゲノム配列の概要の解読終了を発表した。発表の中で、クリントンは「今世紀の科学の進歩の中で最重要な展開だ」と述べた。 |
個々の現象が記述できないわけではない。個々の生命現象はいつもあっけないくらい常識と違わないのだ。“ステレオを構成する部品構成(物質)が分かっても、流れる音楽(精神)が分かるわけではない”という高いレベルにも達していない。部品のひとつひとつは分かっても、全体がどう作動するか、物質レベルですら予想ができないのだ。しばしばゲノム配列は“生命の設計図”と比喩される。箱を開け“設計図”に従って部品を組み合わせると、プラモデルは完成する。しかし、ゲノム配列から分かるのはプラモデルのレベルの設計図ではない。ゲノム配列からわかるのは、部品の構造、つまり、タンパク質のアミノ酸配列だけ。どの部品とどの部品をどんな風に組み合わせるかという、本来の設計理念は、どこにも明確には“書かれて”いない。部品を混ぜて“振れば”、物理化学法則に従って“できあがるはず”としか今でも表現の方法がないのだ。この“表現方法の無さ”に現代の生命科学の行き詰まりが集約されている。
問題はもっと深い。人間のような多細胞生物(たくさんの細胞から構成される)の体を構築する各細胞、手の細胞も脳の細胞も、みな同じゲノムDNA配列を持っている。では、各細胞はどうやって異なる形態と機能を持つのか? それは細胞分化の“カスケード”による。細胞が二つに分裂すると、互いが互いに影響しあって、それぞれが異なる情報を同じゲノム配列から選択するようになる。この過程が積み重なって、最終的には、異なる細胞の集合としての個体が成立する。同じゲノム配列を共有する一万の細胞全体の情報選択機構を規定する論理だってゲノム配列に存在するはずなのだが、それを明確にとりだす方法論を我々は未だに持ってはいないのだ。
1957年(昭和32年)、デルブリュックはMITで相補性について議論した。相補性が現れる対象としての複製の研究をあきらめたデルブリュックは、しかしこの時点でも遺伝的な組み換えのような現象のなかに物理法則との矛盾がみつかると期待していて、パウリのような友人たちからも批判を受けた。パウリは「相補性の現れは、認識とか心理といった高次な精神現象にみいだされるのではないか」と考えたが、デルブリュックは、依然として分子レベルの現象から完全に離れようとはしなかった。この年、ボーアは「デルブリュックの相補性の取り上げ方が適切でない」とこぼしている。1962年(昭和37年)に亡くなるまでボーアは、相補性という概念の表現を改良し続けた。この概念を「きちんと定義できないものは無意味」と一顧だにしなかったアインシュタインが死去したのは、1955年(昭和30年)の事である。
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アインシュタインが来日した1922年(大正11年)からDNAの立体構造が“発見”された1953年(昭和28年)まで、30年余り。日本をとりまく国際情勢は現代へとさらに大きく変化した。それでも、寺田寅彦が書いた“物質に瀰び漫まんする生命”の謎は依然として私達の手にとどかない彼方にある。
(連載終了)
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