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文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長鈴木 理
貧困と空腹にあえいでいた日本国民は、1949年、渡米中の湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したとのニュースに狂喜し、理論物理学がブームとなるが、世界はその根底で生命科学へと動いていた。焼け跡の東大では、“住人”たいちによる「生物学への転向」をめぐる熱の入った議論が続いていた。ウイルス結晶化の話を知って“物質と生命”が両立するものか悩んだ東大助教授・渡辺格の夢にデカルトが現れて「物質と精神の分離は、キリスト教社会で科学を進めるための方便にすぎない」と語った。
1942年(昭和17年)9月当時の水島研の面々。前列中央は、片山正夫東大名誉教授、その左隣が水島三一郎教授。最後段2名のうち右側が渡辺格。
焼け残った東大理学部1号館の一室では南部陽一郎や久保亮五たちが共同生活していた。「魚が手に入れば焼いて皆で食べたが、冷蔵庫もなく、すぐに腐って困った」と南部。戦時中、南部は陸軍技術研究所で電探(レーダー)の研究に参加した。「海軍の進捗状況を盗んでこい」と言われて、母校に小谷達の様子をうかがいに行ったこともある。敗戦後は、東大での朝永の講義を手伝いながら、研究者としての朝永の姿勢を貪欲に吸収していった。 同級の久保は1942年(昭和17年)に短縮卒業した後、戦略物資だったゴムの弾性を研究し、弾性の本質が架橋された分子鎖全体のネットワークのミクロブラウン運動にある事を明らかにしていた。1945年(昭和20年)に書いた久保の論文は、東京大空襲の際に印刷所で焼けてしまった。しかしこの年の暮れ、早くも復刊された岩波の『科学』に要約が掲載される。空腹を抱えながら理論を完成させて、1947年(昭和22年)に著書『ゴム弾性』を出版。後に久保は「今読み返すと、若気の至りで気負っていて恥ずかしいのですが、一面、あの時代に燃えた、研究復興への意気込みを反映しています」。 東大化学教室の状況も似たり寄ったり、教授室には水島三一郎とその家族が住んでいた。満州の両親の元へは帰れなくなった卒業生の野田春彦は、海軍技術研究所から布団や実験器具を水島研に運びこんだ。「米を炊くにはビーカーが一番いいよ、焦げると分かるから。豆か何かが配給されて煮上がる寸前になると、必ず誰かがやって来た」と野田は苦笑する。野田の先輩、戦争中、海軍殺人光線研究の“番頭”をつとめた渡辺格(1945年当時、29歳前後)も輻射線化学研究所助教授として東大に戻っていた。
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