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生命情報科学の源流

第8回 焼け跡の東京:デカルトとの対話

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東大図書館での出会い

 敗戦後、戦時中に出版された科学雑誌がロックフェラー財団から東大図書館に寄贈された。雑誌が集められた一室に、様々な分野の研究者が集まって文献を漁った。コピー機など無い時代だから、メモをとり、筆写し、頭の中に叩き込む。1946年(昭和21年)秋、東大図書館で、助手の質問に渡辺格(30歳)が小声で答えていると、机の反対側にいた人物が睨んだ。差し出された紙切れには「外でお会いしたい」。この人物は柴谷篤弘(26歳前後)、しゃべっていた事への抗議ではなく、「核酸を研究しようとしているのは、私だけではなかったのですね」と少々がっかりしたような表情。

 当時、柴谷は、東京の製薬会社ミノファーゲンの研究員。戦時中に京大工学部応用化学科に入学後、理学部動物学科に入り直した“変わり者”だった。戦時中に柴谷が書いた“遺書”は、1947年(昭和22年)に『理論生物学-動的平衡論』として出版された。「生命とはタンパク質の動的平衡状態に他ならない」といったのはエンゲルス。バナール同様、マルキストだった柴谷はこの考えを信じていた。しかし一面では、堅実な実験家でもあり、核酸研究の重要性にいち早く気づいていた。渡辺と会った時、「2600オングストローム(核酸の特異的な吸収波長)という言葉が聞こえた」と柴谷。

 柴谷と渡辺の出会いから、核酸の研究をめざす日本の運動が始まった。柴谷は、科研や東大医学部の関係者に働きかけ、運動の中心人物として名古屋大学理学部(後、東大理学部)の江上不二夫教授を引っ張りだした。こういった動きが、同じ敗戦国のドイツやイタリアで見られなかったことは注目に値する。戦前の華やかさとは対照的に、国土が破壊され、しかも自らの失態でユダヤ系科学者達を失ったドイツとは異なり、戦前、たいした基盤を持っていなかった日本は失ったものも少なかった。こうして、米国でのファージ・グループの集まりに遅れて、1949年(昭和24年)から「核酸シンポジウム」が開かれるようになる。

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