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戦後まもなく、共産党系の民主主義科学者協会に関連する「理論生物学研究会」が東京文理大学で開かれ、小林理学研究所の岡小天と鎮目恭夫がシュレーディンガーの著書『生命とは何か?』を紹介した時、柴谷もそこにいた。小林理研は戦争中に久保亮五が熱力学に目覚めた場所。岡達のシュレーディンガーの本は、戦後初めて渡米した湯川秀樹がアメリカで見つけて岡に贈ったものだったのだ。 1949年(昭和24年)、湯川秀樹、朝永振一郎、小平邦彦の3人があいついで渡米した。湯川夫妻は航空機でニューヨークのコロンビア大学へ、他の二人はプレジデント・ウィルソン号の3等船客として2週間のカリフォルニアへの航海の後、原爆開発を統括したオッペンハイマーが所長となったプリンストン高等研究所へとむかった。占領下の日本で、旅券を発券するのはGHQ(占領軍)だった。「回虫駆除剤を飲まされて帰宅する電車の中、何かが足を伝わって降りていくと思ったら、30センチもある巨大な回虫だった」と小平。ボーアが滞米中と聞いた仁科は湯川にボーアへの手紙を託した。「1949年(昭和24年)にコペンハーゲンで開かれる国際学術会議総会に日本代表として仁科が出席できるようにGHQに働きかけて欲しい」という内容だった。 プリンストン高等研究所の裏庭には小屋があり、IASコンピュータがその半分以上を占めていた。単身での渡米だったためか、朝永はホ-ムシックにかかり、「神通力を失った」。小平が「帰る前にオッペンハイマーをあっと言わせてやらないと」とけしかけても、朝永は「米の飯がないと良い考えはうかばない」「夏には蚊が飛んでこないと」果てには「トイレが臭くないようではダメだ」。3人の滞米中の11月に湯川のノーベル賞受賞が発表された。翌1950年(昭和25年)、アメリカに残った小平と別れて朝永が帰国した時には、すでに朝鮮戦争が始まっていた。朝永が乗った船にも米軍兵士が多数、乗船していて、朝永は一等船室を出て、兵隊たちが半裸で博打に興ずるのを眺めた。
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