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生命情報科学の源流

第2回 1922年:日本とヨーロッパの距離

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第一次世界大戦前の日本

 これにさかのぼる1913年(大正2年)、物理学者、寺田寅彦は、英国のブラッグ父子と相前後してX線の回折理論を構築した。1901年(明治34年)、第一回のノーベル物理学賞がX線の発見に対してレントゲンにおくられたが、X線の実態はよく分かってはいなかった。ミュンヘン大学のラウエ達が結晶を格子のように使う事によりX線が回折される事を観測し、X線が波である事を示した。しかし数多くの回折点が様々な方向にあらわれた事から、これをどう解釈すべきか混乱していた。ラウエの報告を読んだ時、ローレンス・ブラッグ(子)はまだケンブリッジ大学の学生だった。キャム川沿いの散策路を歩いていた彼の脳裏を「結晶の中にさまざまな反射“面”があるからに違いない」というアイデアがかすめた。一方、寺田は、フィルムの代わりに蛍光板を使えば、X線の軌跡がその場でたどれる事を知っていた。蛍光板を手に持って回折方向を目でたどる事により、「面からの回折」を寺田は実感する。口頭発表も論文の印刷も、ブラッグの方がほんの少し早かった。しかし、英国の先端的な研究を独立に発見した事により、寺田は国内で高い評価を得る。

 日本では、「カミナリ親父」長岡半太郎(1865-1950、アインシュタインの来日の時点で57才前後、1903年に土星型原子模型を提案していた)を中心に、本多光太郎(1870-1954、52才前後)や寺田(1878-1935、44才前後)、さらには仁科芳雄(1890-1951、32才前後)らの物理学者を輩出していた。やがて仁科の指導のもとに朝永振一郎(1906-1979、16才前後)や湯川秀樹(1907-1981、15才前後)の次世代が育っていく。

 これに先立つ1893年(明治26年)、日清戦争の直前にオーストリア皇太子フランツが軍艦エリザベートで熊本に到着。大阪から陸路で東京へと進んだ。この機会に台湾を占領してハンガリーの植民地とする事により、オーストリア=ハンガリー二重帝国の民族問題を鎮めるというすさまじい案まで本国では議論されていたが、日本にとって幸いな事にこれは実現しなかった。1914年(大正3年)、この皇太子がサラエボで暗殺された事から第一次大戦がはじまる。軍艦エリザベートはドイツ植民地だった青島の防衛戦に参加、日本軍の攻撃の中で自沈した。

 ヨーロッパ諸国が第一次大戦にまき込まれ分断されていく中で、日本とアメリカは後背の工業国として繁栄する。優秀なドイツ製品の入手が不可能になる中、代替品の製造だけでも、日米は重要な役割を果たさねばならなかった。産業に直結した科学技術開発をめざして理化学研究所が設立されたのは、戦争中の1915年(大正4年)。物理学部長となった長岡をはじめ、寺田達がこの研究所に集まる。

↑「鉄腕アトム」は、物語の中で2003年に誕生したとされ、実際に2003年になった時、様々な企画が催された。これはこの時に発行された切手。日本の核物理学の祖、土星型原子モデルを提案した長岡半太郎(中段)のイメージが社会に定着し、これがアトムを生んだ。「鉄腕アトム」の中に描かれた、原子力エネルギーが実用化され、ロケットが飛びかう世界は、かつて科学技術庁がこの国に開設された時、その職員達が理想とした未来でもあった。H2型ロケットの発射が立て続けに失敗し、動燃の事故がおこった後、その責任から科学技術庁はもはや独立した省庁としての存在を許されていない。

↑1922年12月3日、松島遊覧の際に撮影された記念写真。前列中央のアインシュタインの向かって左隣には金属材料研究所の本多光太郎(KS鋼マグネットを土産に手渡した)、右隣には、東北帝国大学の愛知敬一(仙台の講演を通訳)、さらにその右隣で笑みをうかべているのは改造社社長の山本実彦である。

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