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生命情報科学の源流

第2回 1922年:日本とヨーロッパの距離

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戦勝国日本の月沈原

 1922年(大正11年)12月、アインシュタインは東北の「月沈原」、仙台を訪れた。ドイツのゲッチンゲンは科学研究の世界的な中心地で、明治の日本からも、ベルリン大学(法学等の中心)、ライプチヒ大学に次いで、多数の学者が留学している。東北帝国大学は、東京、京都に続く第三の帝国大学として1907年(明治40年)に創立された。当初、京大には理工学部しかなかったため、1911年(明治44年)に理学部が設立された時点では東大に次ぎ、教授をつとめた長岡達(ただし実際に赴任する事はなかった)は、ここに日本の「月沈原」を築く事を夢見た。

 準備期間中に仙台の教授、助教授候補の多くが海外へと留学した。その一人、石原純は1912年(大正元年)、スイス連邦工科大学教授になったばかりのアインシュタインをチューリッヒに訪ねている。特殊相対性理論は、一定の速度で移動する系(慣性系)でしか成り立たない。こんな制約のない一般相対性理論を構築すべく、帰国後、石原はアインシュタインその人とも競った。1905年のアインシュタインのもう1つの論文(光量子仮説)はプランクやボーアとともに量子力学前段階の量子論を築くものだったが(囲み記事参照)、1915年(大正4年)に石原もまた、国際水準のできばえの量子論・論文を残している。しかし、歌人でもあった石原は、同じくアララギ派の「恋多き女性」原阿佐緒との仲を学問より重んじて、アインシュタイン来日の直前に大学を辞職していた。

 仙台で、アインシュタインは東北帝国大学植物学教授ハンス・モーリッシュとともに宴会によばれ、この時、八木秀次にせがまれて部屋の壁に二人でサインしている。本多がKS鋼を生んだのも、八木が八木アンテナを開発したのも仙台での事だった。もともとモーリッシュはウィーン大学教授で、日本から帰国後、総長にまでなっている。子どもの頃には、あのメンデルがしばしば自宅に来るのを目撃。こんな大物が日本に来ていた最大の理由は、第一次大戦後のドイツ、オーストリアの大インフレーションだった。一方、日本は豊かな戦勝国だった。モーリッシュだけではない。アインシュタインその人を教授として仙台に招へいする話まであったのだが、1914年(大正3年)ベルリン大学教授になったため実現する事はなかった。

→アインシュタイン来日の前から、河北新報には多くの関連記事が並んだ。、来日の十年以上前、1910年(明治43年)にアインシュタインを東北大学の教授として招へいする計画があったことを大正11年11月18日に報じている。見出しの「北大」とは、東北大学の当時の呼称。

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