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生命情報科学の源流

第2回 1922年:日本とヨーロッパの距離

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寺田寅彦の苦悩

 明治の日本人科学者達は心からヨーロッパ文明を尊敬していた。だから北里柴三郎のように、ヨーロッパの先生を神社にまつる者まで現れている。アインシュタイン来日の際にも長岡達はただひたすら彼をうやまい、教科書に書かれているような内容の講演をありがたく聞いた。アインシュタインに挑戦しようとした東大大学院生がいて、アインシュタインはむしろ彼を歓迎し、ていねいに応対した。そのそばで長岡達はひたすら恐縮するばかりだった。例外は西田幾多郎。西田は「相対性理論に思い至った経緯を話してほしい」とアインシュタインに願い、京都での講演内容は国際的にも貴重な資料となっている。西田が集めた京都学派の哲学者の中には田辺元(仙台で日本で初めての科学基礎論を教えていた)や朝永三十郎(東京で西洋近世哲学史を研究)がいた。三十郎は振一郎の父親、三十郎が京大に赴任したため、振一郎も京都にやってくる。

 ブラッグ父子は、早くも1915年(大正4年)にノーベル物理学賞を受賞、英国にX線結晶学の伝統を築いていく。食塩からはじまって様々な鉱物の化学構造を決定、この時、食塩の密度をもとにはじめてX線の波長が決まった。こんな方法をより複雑な化合物へと拡張、適用するとともに数多くの後継者達を育成した。そして1953年、ついにローレンス・ブラッグ(子)のケンブリッジの研究室でDNAの立体構造が解明される。1917年(大正6年)、寺田も日本学士院・恩賜賞を受賞した。しかし、寺田にはブラッグ達と互して最先端の研究を展開する資金も施設もなかった。やがて寺田は正統的な物理学が対象としない日常現象の中に法則性を求めるようになる。その一つが、弟子とともに議論した「キリンのしまもよう」。動物の体表のパターンが受精卵表面のひび割れに起因するとするもので、結論はまちがっているものの、後に英国のアラン・チューリングが求めた方向を50年も先行するものだった。しかし長岡達からは「バラック物理学」とからかわれる。ブラッグ達の構築した科学がX線回折をキーワードに化学、生物学を変革していく「長編小説」なら、寺田は独立した個々の美しい景色をとらえる「俳句」の世界に生きていかざるを得なかった。

 欧米と同じ研究を少し遅れて追いかける事の重要性は十分に理解されたが、そんなパラダイムからそれようとする独創的な研究を評価する力が日本には

↑寺田寅彦(写真左の男性)の作った短歌に「好きなもの イチゴ 珈琲 花 美人 懐手して宇宙見物」という作品がある。左の写真は、この寺田の「好きなもの」を実現するために、1934年(昭和9年)玉川上水畔にて行われたピクニックの様子を撮影したもの。

↑1917年(大正6年)頃、東北帝国大学工学専門部電気工学科の無線電信実験室で学生たちに囲まれて立つ八木秀次教授。(東北帝国大学工学専門部第9回卒業記念帖より)

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