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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長 鈴木 理   構成協力/佐保 圭   取材協力/仁科記念財団 日光金谷ホテル 日光市立図書館 中川光熹

 1937年(昭和12年)、日中戦争のさなかの日本に量子力学の育ての親、ニールス・ボーアがやってきた。ボーアの関心は、しかし意外にも生物学にあった。彼をむかえたのは仁科芳雄。コペンハーゲンの理論物理学研究所でボーアの教えをうけた仁科とマックス・デルブリュックは、当初は日本とドイツで、やがては太平洋を隔てた日米両国で、「光と生命」の関係を追究する事になる。

仁科芳雄の帰国

 1928年(昭和3年)の暮れ、コペンハーゲンの理論物理学研究所から米国経由で仁科芳雄(1890-1951、当時38才)が帰国した。仁科は東大卒ながら工学部の出身、皮肉にもこの経歴が彼を新しい物理学の日本における指導者へと運命付ける。東京帝国大学理学部で長岡半太郎の講義を聞くうちに、仁科は「電気屋」から物理学へと転向し、理化学研究所の長岡研究室に参加した。原子核の土星モデルを提唱した長岡は新しいものが好きで、核物理学に強い関心を持っていた。アインシュタイン来日前年の1921年(大正10年)4月に、後にアインシュタインを日本からパレスチナへと運ぶことになる榛名丸で、神戸から仁科は渡欧した。日本初の理論物理学者、石原純の講演を聞いてアインシュタインを尊敬していたから、こういう形ですれちがったのは仁科には不本意だったかもしれない。そもそも当初は短期のつもりの欧州出張だった。母が亡くなって帰国の理由をなくした事もあり、結局、英国のキャベンディッシュ研究所、ドイツのゲッチンゲン大学を経て、コペンハーゲンのニールス・ボーアのもとで6年間を過ごし、ここで実験家から理論物理学者へと本格的に転向した。

 翌1929年(昭和4年)、米国から帰欧途中のウェルナー・ハイゼンベルク(当時28才)とポール・ディラック(27才)が来日。二人ともボーアの研究所に出入りしていたから、仁科とは旧知だった。10才も年上の仁科が二人の講演の通訳をかってでる姿は、若い物理学者たちに感銘を与えた。京都帝大の学生だった朝永振一郎(1906-1979、23才前後)は二人の講演を聞くために上京、「できたてで湯気がでている」相対論的量子力学を学んでいく。「二人ともいかにも若く、自分とたいして年齢が違わない事に驚いた」と朝永。この時、東大で同年齢の小谷正雄(1906-1993、後の昭和35年に日本生物物理学会・初代会長に就任)をみかけた。1931年(昭和6年)には仁科自身が京都帝大で10日ほどの連続講義を行い、これを朝永や小川秀樹(1907-1981)、坂田昌一(1911-1970)達が聞いた。この3人は東京で生まれ京都で育った点で共通していた。仁科は数学の才能高い朝永に目をかけ、翌1932年(昭和7年)、理化学研究所にひきとった。後に坂田も合流。一方、同年、小川は大阪の湯川家の養子となり澄子夫人と結婚。湯川家は夏目漱石も療養したほどの大病院を経営し、経済的に悩むことなく学問に専念できるようになった。

→大正時代の絵葉書に見る日光東照宮・陽明門。物理学者のアインシュタイン、ハイゼンベルク、ディラック、ボーア、経済学者のシュンペーターなど、大正から昭和初期にかけて来日した著名な外国人たちの多くは、日光に立ち寄っている。建築家ブルーノ・タウトもその一人。1933年5月に日光を訪れた彼は、東照宮の独特の雰囲気に対するイメージを次のように日記に書き記した。「第二の社殿(東照宮)、--いかもの(キッチュ)だ。(中略)華麗だが退屈、眼はもう考えることができないからだ。」(『日本タウトの日記』1933年篠田英雄訳より)。「いかもの」とは「ゲテもの、まがい物」の意味で、ドイツ語の「キッチュ」の訳。桂離宮を「日本美の極致」と絶讃したタウトにとって、アジアを想像させる日光東照宮の派手さは、精神性に欠けると映ったようだ。

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