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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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靖国丸の欧州脱出

 神経の細やかな朝永はドイツでしばしばホームシックにかかったようで、「子どもの頃、家族とともに東京から京都へ移った時のように、心細くなった」といった文がつづられている。彼の日記には、若い「ワタナベ」がヨーロッパの文化をエンジョイする様子をうらやむ調子がある。無理もない。渡辺慧はドイツ籍のドロテア夫人と結婚して1938年(昭和13年)8月には長男が生まれていた。1939年(昭和14年)、風雲急を告げるヨーロッパ情勢のもと、米国行の船をつかまえようとして渡辺夫妻はコペンハーゲンへと移動し、一か月も待ち続けねばならなかった。ボーアの住まいに招待された時には、ホテルに子どもを置いていかざるを得なかった。「4時間おきにミルクを与えなければならないので、申し訳ないが長居はできない」と言った渡辺夫妻に対して、ボーアは「人間が変温動物だったらどれほど簡単か。10度、体温を下げれば生化学反応は半分に低下するから、8時間はいられるのに」と応じた。

 京都帝大教授になる事が決まり、その前にブリュッセルでのソルベイ会議に参加しようとした湯川が、神戸から靖国丸に乗って1939年(昭和14年)8月2日にナポリに到着したところで、会議は中止、一方、船は日本政府により日本人引き揚げ船としてチャーターされた。8月26日、湯川は朝永達と共にハンブルグから靖国丸に再乗船する。靖国丸がノルウェーのベルゲン港に停泊中の9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ポーランドと同盟する英仏がドイツに宣戦、こうして第二次世界大戦が始まった。9月4日、中立国の所属である事を示すため船腹に大きく日の丸を書いた靖国丸の前で集合写真を撮影後、ニューヨークへむけて船は出航した。

 もともと靖国丸にはローマで開催される予定のオリンピックに参加するため12人の日本人選手が乗船していた。ナチスの一大デモンストレーションとなった1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックに続いて、ローマそして東京へとオリンピックはうけつがれるはずだった。幻の東京オリンピックをめざして大日本帝国にふさわしい建築様式がもとめられ、帝冠様式がとりあげられつつあった。しかしローマ・オリンピックは中止。選手たちは湯川や朝永とともにニューヨークへ向かった。不安な中での約10日間の米国への航海は、しかし結
局、無事にすぎた。

 湯川は、コロンビア大学、プリンストン高等研究所、ハーバード大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学等を訪問しながら米国を横断。微分解析機(機械式の一種のコンピュータ)を見たり、アインシュタインにはじめて会うとともに、オッペンハイマーやローレンスが西海岸で精力的に研究を展開する様子に触れた。10月にサンフランシスコから横浜行の鎌倉丸に乗船。一方、朝永は日本到着まで靖国丸にそのままとどまり、仁科に「米国を知るよいチャンスだったのに」と残念がられた。

→靖国丸の乗船者名簿。312号室に湯川の名前、317号室に朝永の名前が見える。

↑ドイツからの帰途に就く靖国丸上の朝永振一郎(丸囲み左)と湯川秀樹(丸囲み右)。写真/『回想の朝永振一郎』みすず書房刊より。

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