ニールス・ボーアの来日
1935年(昭和10年)の二度めのディラック来日の後、1937年(昭和12年)には量子力学の育ての親、ニールス・ボーア(1885-1962、52才前後)その人が来日。ボーアを日本に呼ぶことはヨーロッパ滞在中からの仁科の夢だった。しかし来日予定日の直前にボーアの長男が行方不明になったりして遅れ続け、結局、実現した時には日本社会に戦争の影が色濃く落ちていた1932年(昭和7年)には上海で日中両軍が衝突、1933年(昭和8年)には満州問題が原因で日本は国際連盟を脱退していた。同年、ドイツではヒトラーが合法的に首相に就任。ボーア来日の1937年11月には日独伊防共協定がむすばれ、やがて1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟へと発展する。この時、仁科は「やれやれ、これで日本もならずもの国家のなかまいりか」。
ボーアは1911年(明治44年)に26才で渡英、キャベンディッシュ研究所で研究に従事したが、所長のトムソンとはソリが合わなかった。たまたま研究所の夕食会で当時マンチェスターにいたラザフォードと知り合い、彼の研究室に出入りするようになる。この頃、マンチェスターではラザフォードの原子モデルが研究の中心となっていた。長岡の土星モデルにきわめて似たものだったが、かなり後になるまで長岡のモデルを知らなかったとラザフォードは言っている。土星モデルでは電子はやがて(本当はきわめて短時間のうちに)核へむかって墜落してしまう。そうならない理由を何とか見出そうとみなが努力したが成功しなかった。1913年(大正2年)にパルマーの公式をボーアが知った事から事態は展開する。気体をあたためると特徴のある波長をもった光が放出される(輝線)。太陽光にもこんな輝線があり、その多くが熱せられたヘリウムに由来する事が今では知られている。パルマーの公式は水素の輝線が不連続で、その波長があるパターンをもつ事を示していた。やがてボーアは原子核のまわりの電子の軌道が不連続で軌道の間を電子がとびうつる時に輝線が放出される事に気付く。ボーアのこの説明は、アインシュタインの光量子論、プランクの黒体放射式とならんで前期量子論の基礎となる。1922年(大正11年)にボーアはノーベル物理学賞を受賞。この年、来日中のアインシュタインもノーベル物理学賞受賞の連絡を受けたが、それは1922年のものではなく空席になっていた1921年のものだった。第一次世界大戦後の1919年(大正8年)にボーアはデンマークへと帰国。コペンハーゲンの公園のすみに理論物理学研究所をつくっていた。当初、ボーア自身もこの建物に住んでいたが後1932年(昭和7年)にビール会社カールスバーグの創業者がたてた豪邸を提供され、こちらに移った。ボーアの研究所には世界中からたくさんの若者が集まるようになり、量子力学建設の革命の地となる。
ボーアは常にだれかと議論しながら考えをまとめるタイプで、その相手に仁科やディラックを選んだ。父親が著名な生理学者だった事をほこりとするボーアは生命に深い関心を持ち、コペンハーゲンで仁科とよく生命を議論した。だから東大での一週間の連続講義では、量子力学のコペンハーゲン解釈や相補性原理と並んで、生命論が中心となった。
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↑ボーア来日翌日(1937年4月16日)の東京日日新聞の記事より。宿泊先の帝国ホテルにて記者によるインタビューの内容が掲載されている。 |
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↑金谷ホテルは、ヘボン式ローマ字表記を考案したヘボン博士の勧めにより、1873年(明治6年)、外国人専用の宿泊施設「金谷カッテージ・イン」として開業。その後英国の旅行家イザベラ・バードの著書『日本奥地紀行』での紹介などにより、「金谷」は日本のリゾート避暑地、日光の代表的なホテルとしての地位を確立し、明治、大正、昭和と著名な外国人たちに大いに利用されてきた。現在、日光金谷ホテルでは、創業以来130年を越える歴史を物語る貴重な乾板写真の整理とデジタル化を進めている。 |
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→1929年に訪れたハイゼンベルクとディラックのサインが残る宿帳。 |
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